偶有性と偶然性の違いとは?

最近、主にネットで「偶有性」という言葉を見かけることが多くなった。しかし、この言葉は「偶然性」とどう違うのだろう。そもそもどんな意味なのだろう。どうして日常語ではないこの言葉が増えてきたのか。

wikipediaによると、偶有性とは、

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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本質(ほんしつ)(希 ουσια (ousia), 羅 substantia / essentia)とは、あるものがそのものであると云いうるために最低限持たなければいけない性質をいう。もしくはそうした性質からなる理念的な実体をいう場合もある。或る存在を必然的にその存在として規定する内実がその本質である。伝統的には、「それは何であるか」という問いに対する答え(「何性」)として与えられるもの。

それに対して、ものに付け加わったり失われたりして、そのものが、そのものであることには関わらない(必然性のない)付帯的な性質を、偶有(性)という。

一般的には広義の使われ方として、「見せかけ」や「表面上の事柄」に対する概念としての「正体」や「真髄」など「ものの奥底にある表面的でない、中心的な、本当の性質」の意味で使われる。

例えばリンゴが赤いということは、一般的によくあることだが、別に赤くなくてもリンゴだから「赤さ」は偶有的といえる。

ここで重要なのは、ある具体的なリンゴが赤いかどうかは「偶然」だが、リンゴが「赤さ」を持ちうる(色という性質を持つ)かどうかは「偶有的」であるということだ。

偶然性と偶有性の字面は似ているが意味がかなり異なっている(連関はあるが)。偶有の反対は本質だが、偶然の反対は必然であることを考えるといっそう違いがはっきりする。


以上の簡単なリサーチの結果を踏まえてみて、誤解を恐れずに言えば「インターネットには偶有性が満ちている」などと表現することは伝統的な偶有の意味からはだいぶずれている。ほぼ間違いに近い使い方も多いのではないか。

にもかかわらず偶有性という言葉が普及しているのは何故か。(以下は最近使われている言葉としての偶有性についてのみ触れる)

わたくしの仮説だが、おそらく偶然性という表現に含まれつつも、それに収まらない新しい意味内容が、偶有性という表現にこめられている。結論を先に言えば、偶然性と偶有性の違いはその対象の性質による。反復可能であったり同種類の事象が複数存在する倍いには「偶然性」、そうでない場合には「偶有性」を使っているのではないか。

偶然性も偶有性も広義の偶然性に含まれる。(英語のMANが、男性と男性を含めた人類全体を表現しているのと同じ構造)

サイコロを振るとか、毎日の気象のように反復されたり同種類の事象のグループを形成できる場合は偶然(存在する同種類の事象のグループがすべて同じである場合は必然ということになる)。

しかし、その対象が一回性を持つ固有の事象であったりするときには偶有性という表現を使うのではないか。例えば振られているキーボードの配列順がqwertyである理由はない(タイプライター時代の条件によって蓋然的に決まったのであるが、一文字くらい現在と違っても問題はなかったはずだ)。それは偶然であるが、キーボードが普及する歴史は一回きりであるので(先に述べたように同種類の事象グループのメンバーが一つしかないから)必然である。

このような対象に「偶然性」と呼ぶことは間違いでないにしろ、サイコロを振った目の数とは違う種類の偶然性といいたくなる、のではないだろうか。

インターネットには偶有性が満ちているという表現も、思いもよらない(そしてその情報にアクセスしなくても良かった)という意味で、偶然性と呼んで差し支えないはずである。しかし、スロットマシーンとは違いインターネットに存在する情報が確率的に存在しているわけではない。それは「多様性」と呼びうるような形で、ユーザーがアクセスしようがしまいが存在し続ける。しかし、インターネットの中にその情報がそのような形で「あるべき」理由はどこにも見当たらず、広い意味では偶然である。また、それにあるユーザーがアクセスすると言う行為も、一回性を持つ。

ネットユーザーは「偶然性」というと同種類事象が複数存在することをほのめかしてしまうので「偶然では強すぎる」、多様性だと、単に対象のバラエティーの豊かさしか表現しておらず(必然的に多様でも論理的にはありえる)(また、多くの文脈では多様性に出会う能動性が前提されている)、「多様性では弱すぎる」と感じ「偶有性」という手垢のついていない言葉を使っているのではないか。