パーティが終わった国で生きるということ@泥酔

よしもとばなな氏のエッセイを取り上げたブログが話題を呼んでいる。

私なりに要約すると、

よしもとばなな氏が、チェーンの居酒屋にワインを持ち込んでこそこそ飲もうとしてたが、バイトの子に頼んでグラスを出してもらった。そしたら、そのバイトが店長に怒られ、店長に持ち込みはノーとはっきり拒絶された。

という話だ。

おまけとして、よしもと氏が、自分たちのような特別な人にサービスをするのが成功のポイントなのに、アホな店長だ、という負け惜しみ的なコメントをつけている。



ほとんどのコメントは、店長の態度もかたくな過ぎるが、よしもと氏は何様だ?というもの。

だが、比較的年長者にはよしもと氏への同調も多い。マニュアルマニュアルで日本は冷たい連中ばかりの社会になっちゃった、と。


よしもと氏自身もエッセイで触れているのだが、あの店長は(よしもと氏より年下らしい)日本のいい時をしらない人たちなんだな〜という侮蔑をしている。

その店長よりさらに年下である(と思われる)自分には、正直よしもとばなな氏の態度はなによりも不愉快に感じられる。

そんな中、我が意を得たりというブログを見つけた。

http://d.hatena.ne.jp/kazu-ct/20090819/1250690528
(引用開始)

いわゆるバブル時代に支配的だった感覚の、現代の感覚と比べての大きな特徴(「いいときの日本を知らないのね」というときの具体的な中身)というと、僕が第一に思いつくのは「ごく個別的な、あるいは偶発的な、ちょっとしたニュアンスを高く評価すること。ひいてはそんなニュアンスの違いに気付ける人(自分)って何て素晴らしいんでしょという内輪褒め感覚」だ。

(引用終了)




ちなみに、はてなブログを中心に盛り上がっているこのトピックス。比較的内向的で都会的な人が多い層が盛り上がっているので、よしもとばななは何様?的なコメントが多いが、個人的には、世代に関係なく、実はよしもとばなな氏に近い感覚の人のほうがまだまだ多いとも思っている。

別に二十代でも、「サービス業は客にノーを言わないのが基本」という人も多いだろう。自分は全然そうは思えないし、思えない人が結構いるからこそ、今回のネット騒動にもなったんだと思うが。


うまくいえないんだが、いろんなところで軋轢というか、「あいつらなんなんだよ」互いに言い合っている、理解しあえない「常識の断層」が社会のあちこちにあるような気がする。

その断層の一端を垣間見ることができたので、このネット騒動はすごく面白かった。



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先日久しぶりに読んだ「ザ・シェフ」でもそうだけど、よしもと氏のいうような「非人間的なマニュアル人間ども」と人間らしさを求める人間の対立が確かにある。紹介したブログの言うように、日本が調子のいいときは、そういう気配りをする余裕もまだあった。でも今は違う。


もうパーティは終わったんだよ。ホールは照明が落とされ、ドアの向こうでは何かは分からないけど、不吉な音がしている、そんな状況なんだよ、日本は。(映画、「暗殺の森」で、盲人の集まるパーティがあったが、そんな感じに近い)

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会社の規定に無い持ち込み料をもらっても、店長は多分(まあばれないだろうから大丈夫だけど)、理屈で言えば、会社の評価としてはマイナスになる。それをどう経理的に処理するか定まっていないだろうから、店の非公式なプール金にでもするしかないはず。


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だけれども、人間性を求めているつもりの多くの人々が、マニュアル化した社会では「モンスター○○」となってしまうのが悲しい現実だ。

興味が沸いて、よしもとばなな氏の公開日記を読んでみたが、そこに描かれているのは、行く先々で、猛烈なクレーマーとして扱われ、腫れ物にさわるように扱われ、その度に「あいつらはマニュアルに縛られかわいそうに」と負け惜しみをいうよしもと氏の姿だった。

子どもらしさ、ルールに縛られない自由を求める精神は素晴らしいのだけど、それが大人になってもそのままであると、単なる傲慢な人になる。そこが難しいところだと思った。

ジョブズじゃないけど、ステイフーリッシュ、それは素晴らしい言葉だ。自分の座右の銘にしたい。でも、よしもと氏みたいな大人にはなりたくない。
よしもと氏は自分が餓鬼っぽいとか、フーリッシュだとか露ほども自覚していないんだろうな。



なんだこいつは?というような呆れるような人でも、その人の主観では、生き生きとした人間らしさを求める感性が働いているのかもしれない。そう思えるようになっただけでも、自分はちょっとだけ成長できた気がする。

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どういうわけか、もう一方の極端な人として、勝間和代さんの存在を考えてしまう。

そのことについてはいずれまた書くかもしれない。