十月二十日

at 2004 10/20 22:25 編集

今日は脳トレを張り切りすぎたせいか、今かなり疲労感を感じている。

昨日は「ゲーデルエッシャー・バッハ」と、「ある数学者の弁明」を図書館に返した。「ゲーデル・・・」は実に面白く、どんどん読み進めたいのだが、ちょっと私の理解力を越えてきていて、今一気に読むのはもったいないと判断した。別に本は逃げないから、自分の理解力が高まるまでとっておこうと思う。

ふと思ったのだが、たとえば世界史を勉強しようとしたら、初級者と中級者のレベルは、持っている知識の量によって区別されるだろう。だから、その差はなだらかであり、明瞭に区別することが出来ないであろう。

しかし、論理学、数学関係のトピックスは、理解のレベルに飛躍がある。

私は初級者のための解説書をたくさん読んで、不完全性定理やそれに関する集合論などの知識を結構得てきた。もちろん、専門的な記号を使ったり、数学を勉強したわけではないレベルでの理解にすぎない。

だが、一時期は、記号やテクニカルな部分はわからなくても、根本的なアイデアはわかってきたと感じていた。

ゲーデルの証明は、不完全性の一つの表し方に過ぎないから、そのテクニカルな(それも相当難解そうな)部分は別段無視してかまわない、と思っていた。今でも、専門家でないのだからそうだとも思う。

しかし、「ゲーデル・・・」を読んでいるうちに、既知の事項を再確認し、うんうんわかるわかると読んでいくうちに、理解が割れてしまった。どう表現していいのかわからないのだが、今までわかっていたはずの「根本的なアイデア」が、私の精神から消えてしまった。個々の解説者たちの比喩や説明は知識として残っているのだが、それが明確な像を描かなくなった。

要するに、判った気になっていた錯覚が割れたのだ。

こんなことをいうと素人の赤恥丸出しだが、不完全性の諸定理自体は、頭のいい少年が微積分を理解できるように、理解できるものだろう。しかし、頭が良くても微積分をいつまでたっても理解できない人もいるように、飲み込めないまま終わる人もいるに違いない。と、私には思えるのだ。

ある数学者は自分はごく幼いときに数学的帰納法を理解したと述べて、驚いたインタビューに対して「思うに、数学的帰納法はそれほど難しいものではありません。それは結局、であったときに理解するかしないかで、そこで理解しない人はいつになっても理解できないでしょう」という趣旨のことを言っている。

不完全性の諸定理をイメージだけでなんとなく理解するレベルを超えたが、だがその次のレベルまでは、かなりの飛躍がある。

相当のエネルギーを蓄えないと、次の起動にまで跳躍できない。

この問題は、数学関連のトピックだけに限ったことではない。僕が今いろいろ直面している問題の一つの典型例だ。

やれるところまではやってみて、その限界がわかってきたり、それに直面している。

だが、その次のレベルにまで至るには、物によってはかなりの跳躍を必要とするようだ。

いずれも数学や語学や人間関係という、僕が忌み嫌って避けてきたものがネックとなっている。制約条件となっている。

気分が暗くなってきたのでやめる。