十月二十一日

at 2004 10/21 23:10 編集

今日はホフスタッターの「メタマジックゲーム」のいくつかの章を読む。サイエンティフック・アメリカンという雑誌に連鎖入れていたコラムに大幅増補を加えて成立したというこの本だが、やはり面白い。

レムが、アメリカのSF作家が、娯楽に堕して科学に目を配っていないことを批判したとき「サイエンティフィック・アメリカンも読んでいない云々・・・」と批判したという話をSFマガジンで読んだ記憶がある。なるほど、こういった高度かつ娯楽に富んだコラムが連載されているのだから、高く評価されてしかるべき雑誌だ、と思った。

日経サイエンスはこの雑誌と特約を結んでいて、一応その日本版ということになっていたような気がするが、今確かめられない。

アメリカの数学者たち」の誰かのインタビューで「マーティン・ガードナーのコラムがもう読めないのは残念だ・・・」という台詞があったのも思い出した。

ガードナーはホフスタッターの前任のコラム担当者であって、非常に好評を博していたらしい。そっちも読みたい気がする。

アマゾンで調べればすぐわかるのかもしれないが、今日は哲学や語学、数学などに関してはかなり不毛な一日だったので、かなり落ち込んでいて、何事も面倒に感じている。明日以降気が向いたら調べよう。

話が戻るが、レムが数学のゲーデル不完全性定理に対応するような、物理学の問題が、ブラックホールだ、という発言をしていたが、どういうつもりで言っていたのだろう。

レムがどのレベルで不完全性定理を理解しているのかわからないし、ブラックホールの存在を物理学の(われわれの持っている自然を記述するシステム)の中の鬼っ子としてゲーデル命題になぞらえているのか、それとも自然界そのものの鬼っ子としてなぞらえているのか、どこまで比ゆなのか、あるいは本気なのか、ぜんぜんわからない。

とはいえ、私はレムを似非科学とののしっているわけではない。それどころか彼の独特の直観力を非常に評価している。

彼の「砂漠の惑星」は、機械的生命が独特の環境で進化を遂げていったらという設定を舞台にしたSFだが、最終的に生き残る生命形態が、それ自体は非常に小さく弱い、黒いチップのような機会生命なのだ。しかし、それは集団で行動するとあたかも知性を持っているかのようにクレバーに行動し、敵対する生命を撃破する。それはねずみとか、ゴキブリに相当するようなしぶとさを持った生命で、進化のチャンピオンの癖に、少しも高級さを感じさせない。

また人間が大苦戦を強いられ、それが単なる不運というのでなく、人間という種の有利な点がそのまま不利に働いて、人間手なんて不自然な存在なのか、ということが自然に感じられるのだ。傑作だなあ。

この想定を実感を持ってうなずけるのは、コンピューターが普及し、極簡単な生態系や進化ゲームを家庭でも出来る現代人であろう。

僕はいくつか生態系ゲームをダウンロードして遊んで見たことがあるが、最初は大きい生命体や派手で複雑な種が活躍するが、だんだんと小さくて単純だが繁殖力が強い見ていてつまらない種が最後に残る場合が多かった。

このパターンは、なんか見たことがあるな、と思っていたのだが、あるとき、中学生のときに読んだレムの小説だ!と小さいオリエンテーション体験をして納得した覚えがある。

なんといったらいいのか、フラクタルとかの画像を見てしまったら、木の枝やさまざまな自然の光景が、フラクタルやカオスの不完全な表現としか見えなくなるような経験に似ている。

人間関係でも同じで、凡庸であり、愚鈍であるような集団的な形態こそが、ある環境では強い安定性を持っているような気がしてならない。

社会評論などの大衆批判などは、そういう視点をたいてい欠いていて、だからつまらない。(私にとっては、であるが。)

働的な社会と安定した社会を比べて、構造主義人類学のレヴィ=ストロースは、熱い社会と冷たい社会と表現したが、今となってみれば、進化ゲーム的、ゲーム理論的に再定義できるんじゃないだろうか。

これも素人考えかな。ホフスタッターならどう考えるか。

時間である。もう寝なくては。