12・1

at 2004 12/01 22:52 編集

マーティン・ガードナーの似非科学批判の本を立ち読みする。たまたまフロイトの章を読む。

彼の批判はもっぱら当たっていると思う。フロイトは科学としては破綻しているし、現在においてはまともに論じるべき対象ではない。

しかし、フロイトは長生きした人物であり、言っていることは実はかなりあれこれ変わっているのである。それら全体について、「科学的でない」という批判は正当だと思う。しかし、思想として考えるならば、フロイトは相変わらず面白いことばかり言っていると思う。

万物は水であるとか、火であるとか、そういう論じ方をいた古代ギリシャ哲学者たちを現在の科学の水準で批判するのはたやすいが、そのまま彼らの思想の部分まで切り捨てるのはおかしい。

でも、やっぱりガードナーのような性急な批判の仕方をしたくなる気持ちがわからなくもない。この間ここで、血液型性格判断を無批判で受け入れる人たちを罵倒したが、考えてみれば、私は血液型が性格に反映されようとそうでなかろうと、ぜんぜんかまわない。かまうのは、根拠薄弱な仮説を論証なしに受け入れて信じる人々の存在である。

フロイトの思想を、現在でも「科学として」受け入れ、それが与えられるべき予算を独占してしまっているとしたら確かに腹が立つだろう。

しかし、幼児期の体験が人のあり方に対して大きな影響を与えるとか、無意識が存在するとか、そういった基本的な枠組みは、フロイトの独創的な部分であり、正当な評価を受けてしかるべきだと思うがどうか。

フロイトの業績をたたえるイベントを阻止させたりしたそうだが、それってどうなのだろうか。

とはいえ、私も繰り返すけど、フロイトの業績はいまや科学的なものはほとんどなく、文化論的な観点でしか評価しない。

しかし、合理的に物を考えるということはいったい何なのだろう。科学の基本的な枠組みは、有無を言わせない事実の持つ強みである。非常に強力な支配力を持つ宗教に対して合理的な思考形態が対抗するには、誰もがいやでも認めざるをえないような事実を突きつけ、積みかせねていくことが必要であった。

そのことが、現代の科学の大きな特徴を形成したのだが、当然次のような疑問がわく。

あまりにファクターが膨大すぎて、原因を特定できないような現象、歴史上ほぼ一回や数回しか反復できず、繰り返しから法則を導くことが出来ないような現象に対して、科学はうまく適用できない。

生物の進化の歴史など、一回こっきりしかない。人間の歴史もそうであり、ある程度の法則のようなものが見出されても、実験が出来ず、膨大な要因が考えられる以上、「科学」としてうまく成立しないのはほとんど自明である。

しかし、だから社会科学がすべて非合理的な思考であるかというと、もちろんそうではない。

科学は、合理的な思考形態の物理現象に特化した形態に過ぎないように思える。

それでは、科学をも包括するような、「合理的な思考形態」とは一体なんだ、ということになる。

グレッグ・イーガンの小説にはそういう発想がかけているように思える。科学が、非科学であり、科学ではないが、合理的な思考というものの存在が非常に不安定な位置を占めている。彼が科学以外の領域で合理的に思考していないわけではない。むしろその逆なのだが、どうしても、カガク的な裏づけを与えて、「だから、この考えは合理的である」と言わずにはおれないようなのだ。

なんといったらいいか、合理的であるということは、一体何を意味するのだろう。

それ自体が検証不可能であるような世界観においても、非合理的で妄信的な宗教的世界観と、正しいとは限らないが、合理的に感じられる世界観があるような気がする。

合理的であること、おそらくそれは美や感情生活においても成立するように思う。

何故なら、音楽の芸術でも感情生活でも、それが絶対正しいとはいえないまでも、あきらかにこれだ、これが正しい、という感じを受けることがある、というよりそれがなければ、芸術も感情生活もそもそも成立しえないだろうから。

そういう判断の正しさの感じの根拠、それと広い意味での合理性の関連はなんだろう。