「論理的な力」をつける・・・とは? 野矢茂樹「論理トレーニング101題」から 2005-01-10 14:08:05

 はじめに

 論理的な文章を書きたいと、最近このブログをはじめてから切実に思い始めた。このブログに書き込んだほとんどの文章に、誤字脱字どころではない、文章として成立しない間違いや矛盾があるのだ。論理的な文章を書くと言うだけではない。論理的に物事を把握し、仕事や読書に生かしたいとも思う。そこで、「論理的な力を身につけよう。」を今年の目標の一つにすることにした。

 しかしどうやって論理的な力をつけるのか。そもそも「論理的な力」という言葉で私は何を目指しているのか。すべてが曖昧である。
 それで、まず昔買った「論理トレーニング101題」野矢茂樹 産業図書を引っ張り出して、これを手始めにこなしていくことにした。しかし、まず序論で引っかかってしまった。どうも、野矢氏の「論理的」と、私が「論理的になりたい」という時の「論理的」の意味がずれているようなのだ。全く違うわけではないが、重要な違いもあるようだ。
 そこで、まずは野矢氏の「論理観」と私の漠然とした論理観を比べてみることにした。今回は序論のところを考えてみた。

 野矢氏の論理の説明
 
 早速だが、野矢氏は「論理的な力」をはこのように説明する。

引用開始

 論理の力といっても、しばしばそう誤解されているような、「思考力」のことではない。もちろん論理の力を発揮するには、なにげなく見過ごしていたところで立ち止まって念入りにチェックしたり、筋道を整理したりすることも要求される。だが、論理の力とはむしろ、思考を表現する力、あるいは表現された思考をきちんと読み解く能力に他ならない。それは、言葉を自在に扱う力、われわれにとっては日本語の力のひとつなのである。

引用終了 「論理トレーニング101題」1Pから

 読者の皆様はこの野矢氏の文章を読んで、意外な印象を受けたのではないか。野矢氏の主張では、たとえば名探偵ホームズが、たくさんの情報の中の隠された結びつきを見出したり・その証拠から思いもよらぬ結論を出したり・それらをきちんと筋道立てたり、ということは「論理の力」ではない。それどころかそのような考えは、論理に対する「誤解」なのだという。

 私が論理的になりたいと思ったとき、念頭においていたのはホームズやポアロのような明敏な知性を持ちたいと思っていたのだから、私のは全く論理を誤解していたことになる。それは読者のみなさまにとっても、おそらく同じではないか。読者の方が論理的になりたいかどうかとは別に、「論理的とは何か」と問うたら、野矢氏が否定したような名探偵のイメージで答えるだろう。そしてまさに、それが「論理に対する誤解」であると野矢氏は主張するのだ。
 
 では、野矢氏は何を「論理の力」とみなすのか。それは、要約していえば、思考を言語によって発信・受信する能力である。それゆえさし当たって「論理の力」は、言語能力を磨くことを意味するという。確かに論理的であるためには、言語表現を磨く必要があるだろう。しかし、何故それが「論理的」であることの中核的な意味なのか。

 次のような疑問を私や読者の多くの方は感じるだろう。つまり、野矢氏は、われわれが普通使っている「論理的」という言葉の意味の一部分しか定義していないのではないか、と。
 
 私は序論を何回か読み返すうちに、野矢氏の「論理」と、われわれが抱いている(野矢氏によれば誤解)であるところの「論理」の違いと、その理由がなんとなくわかってきた。

 以下、その違いを説明していきたい。再び、野矢氏の序論から引用してみる。

引用開始

 論理は数学の証明に理想的に現れるわけではないし、また、評論や論説に特有のものというわけでもない。言いたいことがきっちりあって、それを自分と意見が違うかもしれない他者へ伝えようとするとき例え軟らかな文章であっても、そこに論理が姿を現す。

引用終了 6P

 まだ明瞭ではないが、野矢氏はとにかく他者とのコミュニケーションを念頭において、論理を考えている。そうなると、名探偵ホームズのような明敏な知性=論理的というわれわれのイメージをいったん置いておいて、野矢氏の主張に耳を貸さないと理解しづらいだろう。 

 さしあたって野矢氏の論理トレーニングとは日本語力のトレーニングである。それは思考の言語表現の発信・受信能力であるから。日本語力=論理的な力ではない。なぜなら、日本語の使い方は無数にあり、思考を言語表現し発信・受信するだけではないからだ。たとえば、ヤクザの恐喝、小説の創作、子供への叱責・・・など無数にある。これらは思考の言語的表現ももちろん含みうるがそれ以上に感情や別の効果を必要としている。それらの言語活動に「論理」は「関係しうる」かもしれない。だが、われわれが鍛えたい「論理的な力」とは関係が薄いだろう。

 だが、数学の証明や評論などは、思考とその言語表現の典型例に思えるのだが、またも野矢氏はそれを否定する。それだけが理想的で、それらだけに特有ではないという。それでは、野矢氏は、どのような言語活動を「論理的な力」を必要とする典型例として、念頭においているのか。再び引用してみる。

引用開始

自分と異なる意見の相手と対話する。それこそ論理が要求されるもっとも重要かつ典型的な場面である。

引用終了 「論理トレーニング101題」 6P

 ここで、「対話」というキーワードに注目しておきたい。この言葉を追求することで、野矢氏の論理観がだんだんわかってくるからである。
 
 野矢氏は具体的に「対話」を定義していないが、私なりに推測して中核的な意味を取り出してみる。これは野矢氏が直接主張していることではなく、私なりに読み取って取り出したものなので、注意していただきたい。

 第一に、「対話」とは、自分と自分と意見が異なるかもしれない他者との間に成立するコミュニケーションである。

 さほど説明は要らないと思う。このようなコミュニケーションは「対話」に限らない。広い定義である。

 第二に、「対話」で使用されるものは、手段としては言語だけである。

 野矢氏は相手に思考を伝達する手段として言語だけを取り上げている。しかも、言語表現の仕方を取り上げている。また一般的な「対話」という言葉には、対等にという意味も含まれている。暴力的関係や、感情的説得、そういうものに頼るのであれば、それは「対話」とは言えない。少なくとも「論理的」なコミュニケーションとは呼ばない。それらに頼らないで、思考を言語で明確に表現し、そのこと自体によって相手を説得するというのが「対話」であろう。

 また、例え互いに対等であっても、言語以外のコミュニケーション手段は「対話」ではない。少なくとも、「論理」が要求されるタイプの「対話」ではない。その理由は次のとおりだ。まず、野矢氏は「論理的な力」を「言語を自在に扱う力」と主張している。そして、論理が要求される最も典型的な場面を、自分と異なる意見を持つ相手と対話する場面に求めている。だから「その『対話』は言語を自在に扱ってなされる」とみなすべきである。

 第三に、「対話」するものは、良識(理性)を持っていないければならない。

 仮に相手が感情や損得というものを第一に考えるのであれば、そういう相手には、それなりの言語表現での工夫も必要になるだろう。つまり、相手が必ず自分に賛成しないだろうとわかれば、あえて自分の望まないことを相手に主張して、相手に自分の望むほうに賛成させるとか。そういうたとえば「矛盾しているが勢いで相手に読ませる文章」などこそが、後の章で批判の対象になっていることからも、言語表現で「対話」を目指す際には、自分も相手も互いの存在を認めなければ成立しない。
 もう一つ言えることは、これは野矢氏は言っていないことだが、全くすべてが異なる思考、常識を持っている人とは対話は成立しない。自分はこれこれでこうだからこう考える。もし自分と同じこれこれでこうという根拠を相手が認識したら、(それが間違っていない限り)相手もこうだと考えるに違いない。という想定が最初から成立していなければ「対話」は成立しない。
 せいぜい、祈りのようにメッセージを発しあうだけが関の山になる。
 野矢氏が言及していないからといって、野矢氏の主張に含まれていないということにはならない。このように意見が異なる相手にでも、何か私と共通するものが期待できなければ「対話」は成立しない。その共通しているものが「論理」と呼ばれる。(この段階では、その具体的な説明はない。)
 ただし、だまされやすさ、感情の動きなどの共通性を考慮した詐欺的、脅迫的表現は「論理的」ではない。それゆえ、相手がそういったもの以外の言語表現と思考に対する誠実さをも持っているのでなければならない。それゆえ、それを良識(理性)とここで表現してみた。

 第四に、「対話」に寄与しない能力は、「論理的な力」とは呼ばない。つまり「論理的な力」は能力として独立して存在するのではなく、あくまで「対話」に寄与する能力をそう呼ぶ。そして「さしあたって」、「対話」に使われるのは言語であるから言語的能力が論理的な力と呼ばれてもいいのである。

 「対話」に寄与しないような言語的能力(耳障りのいい文句を並べる、脅したり、だましたりする)は「論理的な力」とはみなすことが出来ない。
 また、複雑な文法・語彙を駆使する能力は、間違いなく言語的能力だが、ごく平易で明確に表現できる内容を、そのような複雑で難解な言語表現で伝達するとしたら、それは相手にとってかえって伝わりにくい表現になる。だから、このときには言語能力は「対話」に寄与していない。つまり不必要に難解な表現でコミュニケーションする人は、「言語能力は高いが、論理的な力は低い」といわざるをえない。

 もうひとつ別な例えをしよう。「論理的な力」は「登山する力」のような種類の表現である。登山にはまずもって体力、特に脚力が必要だが、脚力がそのままで「登山力」ではない。その脚力が登山に使用されて始めて、それは「登山力」の一要素になる。脚力だけ鍛えても、「登山する」ことに効果がなければ、「登山力トレーニング」とは言えない。

 以上の論点を踏まえれば、意外なことに、野矢氏の言う「論理的な力」は、必ずしも「論理学を駆使する力」と同じではない。つまり、論理学の達人が、野矢氏の言う「論理的な力」があるとは、必ずしも言えない。
 もう一度今までの論点を繰り返すと、不必要にわざわざ記号論理学の表記法を使って「対話」する人は、「論理学力」があるが「論理的な力」はない、といわざるをえない。

 以上に付け加えて、誤解のないように少し補足をしておく。
 無論、「論理学力」と「論理的な力」は全く別のものではない。主題が普通の言語表現では混乱しやすく、慎重に厳密に表現しなおす必要がある場合、記号論理学のような「論理学力」が必要になる。

 「対話」を巡って幾つか野矢氏の「論理」を私なりに理解してみた。

 この観点から、私は、野矢氏の「論理の力」への定義に対する違和感はどう理解できるか。つまり冒頭に述べた、「事象を整理して認識する能力」や「思考する能力」は論理的な力ではない、少なくとも「論理的な力」の中核的な意味ではないという野矢氏の主張への違和感である。
 今までの議論を踏まえれば、「対話に寄与する限りの、言語表現の受信・発信能力は論理的な力である。」従って、事象の認識能力や、思考能力も、これらももしそれが「対話」に寄与するとしても「論理的な力」ではない。あくまでそれは論理的な力の支えとなるような「副次的」な寄与になのである。
 仮に複雑な事象を認識し、筋道立てて思考しても、それを有効に相手に伝達できなければ、あるいはしようと試みなければ、「論理的」(野矢氏の言うところの)にはならない。だから、名探偵ホームズは明敏な知性の持ち主であるだけでは「論理的」にならない。
 ホームズが「対話の精神」を発揮して初めて彼は「論理的」になる。そのとき、ホームズの知性の明敏さには変化はない。その使用目的が異なっただけなのである。
 
 野矢氏の表現では、「対話の精神」と「論理的」であることはほとんど同等の意味を持つ。だからその言葉を入れ替えて読むと、より理解しやすい。だがニュアンスの違いがある。

引用開始

 冒頭に挙げたのは新聞記事だったが、一般に新聞記事には接続表現が乏しく、これといった論理的構造がない。それはつまり、対話の精神に欠けているからではないか。

引用終了 6P

 対話の精神だけでは「論理的」ではない。それが具体的に言語表現のうちに発揮されたものを「論理的」と呼びうる。
 しかし、対話の精神は「論理」そのものではない。先に引用した「論理的構造」とは何を意味しているのか。そのまま「対話の構造」とか、「対話的精神」とか、そういったものを代入してもうまく文章が成立しない。

 私の疑問は今、次のように変化した。そもそも対話が可能になるには、自分と他人に何か共通のものがあると期待される限りにおいてではないか。そしてその共通するものが「論理」はないのか。

 われわれが最初に描いた論理的な典型イメージ・ホームズの場合は、そういう意味での論理を駆使する天才であった。あれこれこうだから、こうだ、というときの「だから」というところの説得力が「論理」なのではないか。

 相手のことを考えずに、「論理」だけを念頭において文章を作っても、「論理的」とはいえないだろうか。以前、不要な記号論理の表現を使ってわかりにくい表現をする人を想定したが、「論理的だが、対話の精神がない人」と読んではいけないのだろうか。むしろその方が正確な表現ではないのか。

 だから、野矢氏は間違っていると思っていたが、よくよく考えると、さらにこのように思い至った。「論理」を、何か「実体」のように考えれば、他者を考えずに、論理だけを考えるということも可能だろう。しかしそう考えなければ「論理」は全く違う意味になる。

 論理は実体があるもののように考えず、「他者と、自己との間に見出せる思考・言語表現に関する一致」と考えれば、その具体的な一致が何であれ、それを「論理」と呼ぶことが出来るだろう。しかし「論理」はこの定義からして、「論理」そのものを取り出すことは出来ない。それはどこかに法則として存在するものではなく、その都度自分の思考と言語表現に対して、「他者」がどう理解し反応するかによるからである。
 そして、相手が全く理解も反応しないことはない、と期待して自分の思考を言語表現するとき何をしているのか。それは、今までの経験と知識を総合して、自分と相手が一致しなさそうな部分をチェックし、潰していく。その実践全体を通して「論理」が「示される。」
 
 そう考えたとき、記号論理学などの「論理」は、ごくベーシックだが狭い「一致」しか形式化していないことになる。例えば、赤いと同時に青いということはない、ということは、記号論理というよりは、「色」に対するわれわれの一致である。「緑なす黒髪」という言葉は、色そのものとしては誤った表現だが、文学的表現としては理解できるという「一致」があり、そのことを考慮した文章もまた、「論理的」である。

 野矢氏は記号論理などの厳密な論理だけでなく、それらも含んだわれわれの生活態度全体に及ぶ広い範囲の「自己と他者の一致と相違」を考慮して、言語によってコミュニケーションを行うことを「対話」と呼び、そこにその都度示される自己と他者の「一致」を論理と呼んでいるのではないだろうか。これが野矢氏の「論理」の広い定義になると思う。

 だが、もっと具体的な限定された意味で使われているほうが多いようだ。つまり、あくまで言語表現の方法にその「一致」を「論理」として語る場合が多いだろう。文章の内容だけではなく、その語り方に着目するという意味も、野矢氏の「論理」は持っている。そしてその実際をこれから読んでいく。

 終わりに

 このように考えた結果、一年の目標を「明敏な知性を持つ」ということに変え、その一環として、野矢氏の言う(と私が考えた)論理の力を養うべきであると結論した。複雑な事象の認識や推論能力は、それはそれとして鍛えていかなければいけないだろう。