九月四日

at 2004 09/04 12:33 編集

空間とひろがり?

空間と、われわれにとって現れる、ひろがりの集合体の違いはなんだろうか。

原始的な生活をしている村落にとっては、広がりそのものが自覚される機会はほとんどない。獲物と自分との広がり、村の内と外、そういったひろがりは、常に具体的な生きていくうえでの関心に基づいて、われわれに現れる。

そして村の人々の持つ世界観のようなものが、書いてみるとするならば、絵地図のようなものとして表現されるだろう。恐ろしい獣の住む森や、夕日の沈む地平の向こうとか、想像や、人々の経験が積み重なって出来た絵地図である。

このような絵地図は、今われわれが使うような精密な地図と何が違うというのか。

いろいろ考えられるが、私の考えでは、「尺度」が登場しているか否か、という点が、根本的な違いだと思う。

われわれは、獲物と自分とのひろがりや、車と車の間のひろがりなど、無数の異なる関心に基づいて、それぞれ異なるやり方で、「ひろがり」に出会っている。それらはまったく違う現れ方なのに、どうして同一の「ひろがり」としてわれわれに受け止められるのか。

一つには、われわれがよく似た身体を持ち、われわれがよく似た生きるうえでの関心の持ち方を持っているからだろう。

獲物と自分とのひろがりが問題になるのは、自分ひとりではない。狩という行為を行うのは村の人々も同じであり、よく似た状況で、獲物と自分とのひろがりに遭遇しているのである。だから、狩をする人のための絵地図のようなものが成立する。自分が行ったことがないような場所でも、自分とよく似た関心を持った人々が経験したことの知識を、自分もまた共有できるのだ。

この答え方は、どうして多様な「ひろがり」の体験が一つの大きな「ひろがり」として集合できるのか、ということの答えの一つにはなる。だが、それが「空間」そのものに至るのかといえば、そうではない。

それはあくまでも、個人レベルのひろがりだけではなく、集団としてのレベルのひろがりを可能にするだけなのだ。

だが、われわれのような現代社会において、生きる関心を持った、人間の身体が直接アクセスできないような経験までも、「空間」として統一的に把握されている。
要するに、極微の原子やウイルスの世界から、極大の宇宙論的なスケールの天文現象まで、「空間」というものによって統一的に把握されている。(時間や量子論うんぬんというの細かいことはおいておく。以下に科学に素人な人々でも、はるか向こうの銀河と、顕微鏡で見なくてはわからないものも、量が違うだけで、「大きさ」という同一の観点で測定しうると考えていること、そのことが問題なのだ。)

先ほど、生きる関心の型を共有した集団の描く「ひろがり」を述べた。それを形象化した絵地図には、生きていく上での関心の対象になるものに関しては、非常に精密な記述がなされるだろう。だが、生きていくうえでのまったくかかわりのない事柄については、「そもそも登場しないし、登場しようもない」のである。

それに対し、われわれの一般的な通念として、見えもしないし、生きて行く上で大して関心もないが、極小の細菌が存在し、太陽系の存在を信じている。もちろんそのレベルではもはや身体を介して、「ひろがり」を体験することは出来ない。

われわれがそのようなレベルの「ひろがり」を理解できるのは、そこに「尺度」が存在しているからだ。尺度によって、「ひろがり」を数量化するという発想が発展可能になる。

何回も引き合いに出すが、原始的な村落の絵地図においては、歩いて半日とか、背よりも高い岩、というように、大きさのスケールはあくまで身体を中心として概念的に把握されている。いまだ、数量化の発想は、存在したとしても萌芽的なもので、十分に発展していない。

われわれの生活が複雑になってくるにつれて、生きる上での関心も多様になる、あまり共有していないような関心が多くなってくる。具体的には建築や都市の設計などがいい例だろう。それを専門に行う人々にとっては、もはや概念的にかなり大きいとか、背丈より小さいというレベルの対象化では不十分である。

誰もが狩人のような俊足を持っているわけでもない。半日で着くといっても、馬なのか、徒歩なのか、軍人の体力か、市民の体力か。

そういった要請を受けて、集団の描く「ひろがり」は数量化され始める。歴史的に見て、それは身体の一部を基にして作られた独特な尺度による。

詳細はどうでもいいことだが、伊能忠敬の時代の日本の尺度は間とか尺とかであった。それで、非常に精巧な地図(もはや絵地図ではなく、きちんと方位と数量化によって計測された、生きる関心の対象ではなく、ひろがりそのものを対象化した地図)であった。

ここから、われわれの描いている「空間」までわずかである。尺貫法は、日常生活においては、メートル法よりもはるかに合理的便利である。それは日本人の大まかな体格を基本にしているからである。

それに対し、メートル法は、地球の赤道の長さを4万分の1というある意味では非常に恣意的な尺度である。だから人間の体格を一メートル七十五センチ、というように、半端な表現でしか表せないのである。だが、むしろ、この半端で恣意的な尺度が別の意味で現代人には便利なのである。それは生活上の利便というものから離れたところで成立したものであるから、それを十倍、百倍、とどれほど大きくも扱えるし、逆に十分の一、百分の一、といった風に好きなだけ極小のスケールも扱えるのである。この十進法によって、どのスケールも扱える、ということが重要だ。

一メートルとか、センチメートルとかいう、われわれの身体のなじみの深いスケールも、メートル法のスケール世界の中で、なんら特権的な位置を持たない。たまたまわれわれの身体にとってなじみの深いスケールということに過ぎない。

このように、生活上の関心から切り離された形の尺度がわれわれの生の関心の対象の世界と、極微や極大のスケールの世界を、統一的に「空間」というものの中に位置づけることを可能にした。

生活上の関心から離れた尺度によって測定される「空間」は、決して「ひろがり」の世界を排除しない。むしろ、「ひろがり」の世界をその中に位置づける。

こうして、重なり合う「空間」と「ひろがり」が、われわれの生活に組み込まれたのだ。このことはきわめて重要ないくつかの帰結をもたらした。

「近さ」の二重の意味。

われわれは、空間(生活上の関心に由来しない尺度によって数学的に構成されたもの)と、ひろがり(われわれの生きていく身体を介した関心によって構成されたもの)を自然に混同させて使っている。

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ということで、既に長大な文章になってしまった。いずれ書き直すことは必至だ。下書きもせず考えながら書くから、どうしても論旨が繰り返してしまうのだ。

これを書き直した後、今度は空間とひろがりの二重性が、われわれの生活においてどのような現れ方をしているのか少し述べてみたい。

そのあとで、多様な生の経験が、どうして同一の「ひろがり」というものに統一されるのか(あるいはされていないのか)と、数学的に構成された単なる観念である「空間」と「ひろがり」がどのように関連しているのか、だらだら考えていくことにしたい。