八月二十九日

at 2004 08/29 22:59 編集

空間とひろがり?

生きる体験ということ。

考えてみれば、「ひろがりの体験」というが、実際にひろがりを意識することは、あまりない。今日一日暮らしてみて、「ひろがり」を体験した人がどれだけいるだろうか。もちろん、車を運転したり、落ちたものを拾おうと悪戦苦闘したり、デートして彼女の手を握ろうとしてどうにも握れない、ということは大いにありうる。

だが、まったくつつがなく「ひろがり」を意識しないですむ一日を過ごした人も多いと思う。

振り返ってみれば、「ひろがり」を意識したように思える体験でも、本当に「ひろがり」を直視していたのか、と考えてみると、これまた疑わしいのである。

車を運転しているときは、車間距離だけを気にしているのではなく、「安全に運転すること」を直視しているのであって、ひろがりを直視しているのではない。同じように、落ちたものを拾おうとしているのであって、そこにあるひろがりを直視しているわけではない。彼女の手を直視しているのであって、その間にある距離を直視しているのではない。

「ひろがり」はたいていの体験において、意識されない。意識される場合でも、副次的に意識されるのであって、「ひろがり」そのものが主題化されることはほとんどない。

だが、逆にこうも言える。今日一日の行動のほとんどすべてが、身体を用いたものである。ということはすべて、「ひろがり」を前提としないと成立しない。

空気は、われわれの生存に必要不可欠であるが、その存在を意識することはほとんどない。それと似て「ひろがり」はほとんど主題的に意識されることはないが、ほとんどあらゆる行為を可能にする条件の一つである。

もう一つ言えることがある。身体や行為と無関係には「ひろがり」はわれわれと関係することがない。「ひろがり」は身体や行為を可能にする条件ではあるが、逆に、身体や行為は「ひろがり」とわれわれが関わることを可能にするための条件なのである。

このことから言えることがある。「ひろがり」は、「生きる」ということと密接な関連を持っている、ということだ。

身体を用いた行為というものが、われわれのほとんどすべての行為を占めている。そしてその行為というものは、おおむね「自分が生きていく」ということによって関連付けられている。ということは、われわれの出会う「ひろがり」は、そのときの「生きる」という局面によってさまざまな現れ方をする、ということでもある。

車の運転をするときの「ひろがり」と、落ちたものを拾うときの「ひろがり」と、彼女の手を握ろうとするときの「ひろがり」とはそれぞれわれわれに異なる現れ方をする。

この現象に似たものとしては、息を止めたときに、急に一秒や十秒というものが長く感じられる、という経験がある。

問題は、このように多様であるものが、どうしてわれわれに、同一の「ひろがり」として了解されているのか、ということだ。

この問いは無理に答えることにしないで、次の宿題にしておこう。

今感じている方向には、そこに、生の体験の一つの要素(契機)である「ひろがり」の多様な体験を統一するためには、物理学的な「空間」の了解が必要なのではないか、という予想があるが、今ひとつ自信がない。