八月三十日

at 2004 08/30 23:38 編集

最近はぜんぜん日記に書いていなかったが、肉体の鍛錬も怠ってはいない。おかげで、だいぶ筋肉質になってきた。また、体全体の持久力も、五パーセントくらい向上したような気がする。

だが、油断すると、筋肉ムキムキになりたい気持ちが強くなってきてしまう。いうまでもなく、世間一般の健康のイメージに毒されてしまっているのだ。

何回もここに書いてきたように、体の全体的な活性化と、部分の意識化、そしてそれの統合が、最終的な目的である。単に体が柔軟になったところで、単に筋肉がついたところで、それがどう健康に役立つというのか。筋肉をつけすぎれば、また筋肉をつけるべくウェイトトレーニングなどをやりすぎれば、骨格、関節を痛めるだろう。また、目的にかなっていない筋肉増強は、運動のスピードを鈍くし、機敏性を失わせる。

かといって、今心がけている食事や入浴、足の裏をもんだりという健康法だけでも、かなり心もとない気がする。

ようは、体全体を毎日満遍なく使い活性化し、日常の動きも、体全体を使って行えるようにすること。

精神の鍛錬ということは具体的にはしないという方針は変わらない。というのは、人工的に精神の状態を左右するという行為には、危険が付きまとうからだ。それをまったくの素人がネットや怪しげな本を読んで一知半解の面白半分でやることほど危険はないだろう。

だが、ルース・ベネディクトを読んで、少しわかってきたことがある。それは、邪念を排するべきである、ということである。
制約条件の理論という、経営に用いられている手法において、成果を制約している条件を探し出し、それを徹底的に活用することが提唱されている。同じように、心の状態をすべて左右することなど、達人でない以上無理だし、またする必要もない。達人といわれるような人は、想定されうるあらゆる状況に対応できるような心境を目指して実現しているからである。

僕が目指すべきはそういうことではなくて、とりあえずそのときの目的と、それを実行する自分を考えたとき、目的と実行の間に負の感情をする自分の精神的要素をコントロールする、ということである。

たとえば、不二子の色仕掛けでルパンがだまされるとき、性欲が問題になる。
頭ごなしに上司に怒られて、もっともだと思う反面腹が立って聞く気になれないときには、プライドというものが邪魔になるのである。

にわかにそういう感情をコントロールできるようになるとは思わない。だが、自分が本来あるべき姿から、どのような自分の中の感情によって逸脱しているのかを出来るだけ観測することは可能だと思う。

そして感情をコントロールすること自体は難しくても、自分がどのような感情の癖を持っているのかを知り、感情の発生をコントロールするしたり、感情のその後の展開を予測したりすることが可能になる。

そうなると、けんかになりそうだと思ったら、ちょっと休憩を挟んで議論を再開するようにしたりとか、とりあえず布団をかぶって寝てから考えるとか、それなりの対処の仕方が出来るはずだと思う。

それにしても、あれだけの洞察をベネディクトがなしえたのはすばらしいと思う。
あの文章に出会えたことで、確かに一歩進むことが出来たと思う。