仕事2005-01-24 22:50:32


 自分で仕事を見つけることを目指すと言っても、実践は難しい。上司からは、段取りが出来ていない。場当たり的に仕事に取り組んでも効果がないといわれた。これはよく昔から言われていて、悩んでいることの一つである。

 帰りにビジネス書のコーナーに行き、いろいろ物色すると、段取りの重要性を説いた本が実にたくさんある。段取りが重要だというのはわかった。しかし実際にどうすればいいのだろう。
 いろいろ立ち読みしているうちに、興味深い論点に出会った。

 ・仕事をどのようにやっていくかどうか、自分の価値観で判断していないか。それは、あなたの仕事を直接評価する上司の価値観で行うべきなのである。

 ・仕事の大事な能力は段取り力であり、それは口で教わるよりも、実際に手本となる人を見て「まねる」「盗む」べきである。

 仕事は他人にどんどん割り振るなど、実践的な方法は、これらの主張から導かれる系列に含まれるだろう。

 拙劣な自分の経験と価値観だけで、不器用に規則をあれこれ立ててみて行動するより、自分が上司ならどう行動するか、上司は自分に何を求めているのか、を大局観として得たうえで、実際の行動を起こしていくほうが確かに上達の道につながると思う。

 上司も、以前仕事は教わるのではなく、見て盗むものだ、という風に私に注意していた。与えられた指示をやるだけではバイトと同じであり、君にはそれ以上の行動が求められている、という注意であった。
 頭ではわかっている面があるのだが、実際にどうすればいいのか、正直アルバイトでさえきちんと取り組んでこなかった自分には荷が重い。

 課題は二つできた。一つは段取りをできるようになるということ。二つ目は、いかに上司など仕事が出来る人から、仕事を真似る・盗むのか、ということだ。

 システムの内外を把握するのはそれ以前の基礎的なことであり、そこで躓いていることは許されないのだ。一日一日が本当に全力で仕事に取り組む日々である。


日記

 ランダムに最近の話題を書く。

 ソフィーの世界の英語版のアリストテレスのところを読んでいると、アリストテレスは何事にも中庸、バランスの取れていることが大事だと説いていると書いてあった。アリストテレスによれば人間は三段階に分かれ、それぞれのレベルでの欲求があるという。

 なるほど、マズローの説というのは、アリストテレスの現代版であったのか、と感動する。それだけではなく、ウィリアム・ジェイムズの「宗教的経験の諸相」にも、そのような見解が述べられていた。

 ただし、いきなりアリストテレスに飛び込むのはきつそうである。入門書を経て少しづついこうと思う。しかし、入門書を読んでいるだけでも、これはカントじゃないか、これはハイデガーか、この辺はベルクソンならどう思うのかな、エラン・ヴィタルは始動因の言い直しに過ぎないのじゃないかな、とかいろいろ追求したいことが沸いてきてたまらない。プラトンはすごいと思っていたが、弟子のアリストテレスもまたすごい。こういうすごい連中の遺産を引き受けて文化を築いてきたのか、と思うと西洋人の(機械力とか軍事力ということではなく)文化の高さがうかがい知れるというものだ。

 思うに中国の文明の高さも西洋人に一切引けをとらないが、中国人はいわばローマ人であって、基本的に政治的なのだ。そういう観点から見れば、中国の古典は学ぶべきすばらしいものだ。

 だが、西洋文明うらやましいところは、ギリシャ人がいたということである。それだけではない、ヘブライズムという強烈な文化も内包している。それらのすさまじい対立の中で、西洋文明は育ってきた。

 とはいえ、西洋だけがそのような複合的な文化を内包して発展しているわけではない。それはどの文化にもある程度言えることなのである。中国を見ても、道教儒教、仏教、といったものが思い浮かぶ。日本においても、仏教、道教神道儒教などがある。今では西洋文明も大量に流入している。

 江戸時代の知識人を見ると、仏教や儒教神道などそれぞれのバックボーンが違っていて、面白い。大学のドイツ語学科とフランス語学科とを比べると、明らかに生徒の雰囲気が違う。特に先生などは全然印象が違う。おのずと自分の資質にあった文化に吸い寄せられるのであろう。これと同じように、儒教と仏教のように、自分の資質にあった知識体系を選べるというのは、その文化の懐の深さを測る一つの目安になるかもしれない。

 こういうことをもうちょっときちんと論じたら面白いと思うのだが、ひょっとしたらウィリアム・ジェイムズなどがもうやっているのかもしれない。あるいは、ウェーバーの比較宗教学がこれに近いのだろうか。

 「世界一受けたい授業」という番組を先日始めてみた。森永卓郎氏の授業は、ちょっと基本的過ぎて楽しめなかった。唐沢俊一氏の雑学の授業は面白かったが、氏の本を読んだほうがいい気もした。陰山先生の百マス計算の授業も、やはり基本的というか、ちょっと楽しめなかった。ある程度陰山メソッドに興味を持っている人には絶対に物足りないと思う。

 全体的に、講師に与える時間が少ないし、レベルがかなり低く設定されているので「あの先生はどんな話し方をする人なのだろう」という興味がないと、今後は見ないだろうと思う。

仕事について 自分で仕事を作り出す能力 2005-01-21 22:39:42

 以前、ブログで何か軽い障害でもあるのではないか、と思えるくらいに、私の生活能力、人間関係能力のある部分が劣っている、という話を書いた。今日はその続きを書こう。愚痴になるが、私は、別にブログで汚い自分のストレスを吐き出したってかまわない、と考えている。ただ、同じことを繰り返し愚痴るのは、自分にとって時間の無駄だから、何か付け加えることが出来たときだけ、新しい仕事の悩みをここに書くことに決めてある。

 さて、幼少期から、何をやっても場違いで、怒られてばかりという人間がどのような防御策をとるかというと、一番ありうるのが「出来る限り余計なことはしない」という消極性を身につけるということではないだろうか。少なくとも私の場合はそうで、冷静になればなるほど、できる限り余計なことはしない、という姿勢を貫くようになった。

 容易に予見できるはずのことだが、このことによって、私の生活能力や対人能力の成長は、余計に遅れることになった。人間は失敗していろいろ学ぶものである。失敗を恐れて何もしなければ、成長はない。

 そして世の中、自分を中心にして回っているのではないのだから、自分から身を引く人のことなど、放っておかれる。私もどんどん社会の中心から放っておかれるようになった。それでも、「奇行」はやまないから、目立ちはし続けるが、もはや中心人物ではない。「悪目立ち」という奴である。

 人間いくつになっても成長できるというのも真実だが、成長するのに向いている季節というは確実にある。極端な話だが、トイレのしつけを大人になってからするのでは遅すぎる。もっと普通の例で言えば、恋愛関係とか、友人と喧嘩をするとか、皆で力をあわせて何かをやるとか、そういう経験をするには少年期や青年期が一番向いている。社会も、そういう事柄での失敗に関しては、その年代の人間には当然甘い。

 これもうまく出来ていないことの一つだが、恋愛というものも、本来であれば、思春期に挫折したり苦悩したりするべきことであろう。それを無視したり、大人になっていきなり直面したり、避け続けたりすればするほど、問題は大きくなり扱いづらくなる。

 私が今直面しているのは、ごく基本的な生活習慣「きちんと行動する」、ができないということだが、それだけではない。「自分で考えて、自分のやるべきことを見つける」ということもまた出来ないのだ。

 その原因は最初に述べたように、失敗を恐れて行動をしないようしないようにする、むしろそれが社会のためだと思い込んでいる、という自分の人生にある。長い間アルバイトをしてきたが、基本的にはアルバイトはルーティンワークが主であり、私のような指示待ち人間には都合がいい。

 しかし、私が今直面しているのは、自分で自分の仕事を見つけ作り出すという能力なのである。こういう能力は大げさに聞こえるが、実は誰でも持っているものである。自分の家を見回し、何かすることがないか、掃除は、洗濯はそういえばやりかけの仕事があったっけ、という具合に仕事を見つけるということは、生きていくうえで基本の力である。いうまでもなく、私は掃除も洗濯もいやいやするだけで自分からアクティブにやったことなどない。

 このように自分で自分の欠点を指摘しても何一つ改善はしない。しかし、努力を始めることは出来るだろう。一日一日を、自分のやれることを精一杯やる、それしかないではないか。疲れてだめになったら、辞めればいいだけの話だ。

 前回の仕事の悩みを書いたときは、まだ仕事を受動的に考えすぎていたように思う。本来仕事はもっと自分で見つけ作り出すべきものなのだ。システムを使いこなすのは、あくまでその前提に過ぎない。とりあえずは、空いている時間が出来たときにするべきことを、幾つか考え、実行しようとするということをしているが、そういうことでいいのか、またするべきことが全然見えてこない(人がやって初めて、ああ、それがあったかと気づく)ということも問題だ。

 このことも、実践の中で何かわかってくることがあれば、ここに書こうと思う。
 そこで、つたないながら、私のような素人が途中で挫折しないよう、簡単なガイドマップをこのブログの書評でやってみようと思う。

*文章修行 2005-01-22 23:04:14

 以前文章修行ののために、自分で気をつけることの一つとして「段落の最初の文章と最後の文章を意識する」というものを心がけているとこのブログに書いた。だが、実践してみるとなかなか難しい。その上、思ったより文章が読みやすくならないようだ。何故だろう。
 おそらく、段落の最初と最後の文章に着目するこの方法では、その段落の中での整合性は獲得できても、段落同士の整合性は獲得できないからだろう。やはり、文章とは段落同士できちんと連関していなければ、読者にとって理解しづらいものになる。
 ではどうすれば、段落同士の整合性を獲得できるか。やはり、段落同志のの最初の文章と最後の文章のつながりを意識する必要がある。つまり、段落同士の接続表現に注意するということになる。
 だが、文章全体の整合性を獲得するには、段落同士の接続表現を意識することは、必要だがそれだけでは十分でない。何故なら、この方法だけでは、隣り合う段落同士の連関しか調節できないからだ。ここの論点のつながりは明瞭だが、結局文章全体で何が言いたいのかわからない、となりかねない。昔「言語明瞭意味不明」という政治家を揶揄した流行語があったが、そのような文章になる可能性がある。
 このように考えてくると、文章全体の連関を得るために、文章の最初と最後の連関が大事だということがわかる。そしてその最初と最後の中間地点で読者が混乱しないように、接続表現に気をつける必要があるのだ。

 今までの所を要約すると、「文章全体の整合性を得るためには、まず文章の最初と最後の連関を考え、段落ごとの接続表現に気をつけて、文章の最初から最後まで読者を混乱させないように案内する」ということになるだろう。

 だが、一つ問題がある。私がブログに日記を書くときなど、漠然と書きたい話題が心のそこにあるのは確かだが、それが明確に主題化できているとは限らない。むしろ、自分で文章を書きながらああでもない、こうでもないと寄り道をした結果、自分が言いたかったことがやっと見えてくるというのが普通だ。このような文章は最終的に到達した意見とは関係のない寄り道がたくさん含まれていて、読者は混乱してしまう。このように、書く前に何が結論になるのかわからないときは、どう書いたらいいのか。

 普通に考えれば、「推敲」の作業が必要だというのが、答えだろう。つまり、一旦書きあがった文章を読んでみて、結論に関係のない余計な部分は削り、結論にたどり着くために足りない部分を補うのだ。これはこれで十分な対策だ。
 だが、「推敲」の作業も手間といえば手間である。結局「推敲」するにしても、そもそも訂正箇所が少なければ少ないほどいいはずだ。どう書いていけば、あとで推敲したりする必要がない文章が書けるか。
 今のところ、私には決定的な解決は思い浮かばない。しかし幾つか候補は持っている。文章を書いているとき、結論部分がわからないにしろ、書き出してはいるわけだから、大まかなイメージぐらいは浮かんでいるはずだ。そのイメージを明確化する過程で、結論とは関係ない試行錯誤が行われ、文章の整合性を損なうのだ。だからといって、試行錯誤を行うなというのでは、文章を書く楽しみが半減するというものだ。あくまで試行錯誤をした上で、なおかつ文章の整合性を保ちたいのだ。

 完全な答えではないが、試行錯誤を整合的に記述するという方法はどうだろうか。ああでもない、こうでもないという書き手の試行錯誤は、読者が文章の冒頭の主張を読んだときに思い浮かぶ疑問でもある可能性が高い。そうであれば、仮にそういった試行錯誤なしに冒頭から結論に一直線にたどり着いたとしても、読者の頭には「ああではないか、こうではないか」という疑問が残り、説得力が薄れてしまうだろう。実際に、そういう試行錯誤を除外した推論では間違って結論してしまう可能性が高い。ならば、試行錯誤を試行錯誤としてきちんと意識して文章を書く必要がある。そうすることで、書き手は結論をたどり着きやすくなるし、読者は試行錯誤を適切に示されることで、書き手の示す結論に納得しやすくなる。仮に結論にたどり着かなくても、ああでもない、こうでもないと試行錯誤した経過を整理して示すことは書き手にも読者にも有益である。
 
 文章を整合的に書くには、まず段落同士の接続表現を意識する。そして、言いたいことがある程度明瞭な場合は、冒頭と結論に注意して書くこと。そうでない場合は、試行錯誤をしながら、書き手は結論を目指すことになるが、その試行錯誤の過程をきちんと整合的なものとしてしめすこと。
 これは、ある主張をするようなタイプでない、エッセイのような、全く漠然と書き始めた文章であっても、だんだん書きたいことのイメージが固まってくるとしたら、そのイメージが固まってくる過程をきちんと書く、ということでもある。

 これだけではやはり整合的な文章を書くには足りないかもしれないが、とりあえず試してみる価値はあるだろう。不都合があれば、またその時点で訂正していけばいい。

日記2005-01-24 08:02:37

 読書

 ソフィーの世界アリストテレスの項まで読み終わる。少しづつ英語が難しくなってきた気がする。アリストテレスが自然を様々に分類したという話を聞いて、ソフィーが自分の散らかった部屋を片付けるところが面白かった。自分も部屋を片付けたくなり、アリストテレスの哲学がどのようなものか気になったので「アリストテレス入門」を購入して読み始めた。

 「宗教的経験の諸相」は中断した形になったが、もちろんこちらも早く読みたい。ブログで引用抜粋して、私なりにまとめたいのだが、本に書き込むのはいかにもためらわれるので、引用しようと思ったところにはポストイットを貼ることにした。うまく行くかわからないが、とりあえずやってみる。

アメリカ礼賛 2005-01-19 22:59:21

 私はSFが好きだ。大好きである。とにかく好きである。

(警告 この文章は、あるSFに狂ったもの暴言ですので、かなり不快感を与える表現が多く含まれておりますが、この作品の書かれた時代背景を考慮し、表現は著者の記したまま残しております。皆様のご理解を賜りたく存じます。)

 少しくどかっただろうか。

 SFは主に英米で特にアメリカで隆盛を誇り続けている。最近はグレッグ・イーガンなどオーストラリアの作家も活躍しているが、結局は英語圏であることには代わりがない。そして、そのうち映像作品ということにすると、断然アメリカのSFはすごい。(オーストラリア作品のマッドマックスというケースもあるが。)

 これはSFに限らない。アメリカの作品創造能力はものすごく大きいのである。これにはいろんな理由があるのだろうが、一つには正のフィードバックが作用しているのだろう。つまり、いい作品を見て感動したやつが自分もああいう作品を作りたいと集まってくる、そしてまたいい作品が出来るという連鎖である。

 子供のときちょっと見た「超人ハルク」も面白かった。超人ハルクはアメコミが原作だと思うが、そっちの方の設定は知らない。私が見たテレビドラマのほうは、何かの薬の副作用で、興奮すると超人ハルクに変身するようになった心優しい男が、アメリカ中をさまようという話であった。もっと細かい設定があったのかもしれないが子供だったのでよく覚えていない。

 ひっそり人知れず暮らしたいハルクが行く先々に、いわれなき苦しみを受けているかわいそうな人々がなぜか必ずいる。男はばれてしまうからあまり関わりたくはないのだが、見過ごすことも出来ず、ハルクに変身して悪を倒すのである。体を緑に塗ったマッチョな巨漢がこれまたなぜか近くにあるレンガの壁をぶち壊して登場するシーンが毎回あったように思う。少しでもハルクを巨大に見せるためか、いつもローアングル気味に映しているのが面白かった。

 映画版しか見ていないが、あの有名な「逃亡者」のテレビドラマの方も同じようなパターンなのだろう。主人公が毎回いろんな地方や職業の人々にまぎれて人助けをするというパターンがアメリ
カのドラマにあるのだろう。

 若い二人の青年が車で気ままにアメリカを横断する国道六十六号線を旅する「ルート66」や無口な賞金稼ぎの男が西部を旅する「拳銃無宿」も、基本的に同パターンであろう。これを見ているとアメリカという国があまりに広大すぎて、いろんなカルトやいろんな思想を持った閉鎖的な連中がいて、一見しただけではよくわからない、という感覚が伝わってくる。

 僕が地方テレビでやっていたドラマも面白かった。アメリカの諜報機関が子供のときからスパイを育て、あらゆる職業に成りすますことの出来る能力を持った青年を作るが、青年はその機関「センター」を逃げ出す。センターはいつしかアメリカの理想を追求する機関から何か邪悪な機関になっていったからだ。センターは同じくスパイ教育を受けた青年の幼馴染の女性を派遣して、男を捕まえようとする。しかし、センターの秘密とは、一体何か・・・。

 これも例のごとく、青年があらゆる職業に成りすましていると、そこに迫害されたり、事故に巻き込まれたりしているかわいそうな人がいて、それを助ける、そしてそこを去ったとたんに、ルパンと銭型よろしく女スパイが駆けつけて、「また逃げやがったな」となるわけだ。

 この話だけを書くと単純な話に見えるが結構面白かったのはストーリーがいいのと、細かいところまで気が配られているからである。

 またこういう話の系列とは別に、一回完結のSFやホラーなど、「奇妙な」物語をやる連続テレビドラマもアメリカが断然面白い。例えば「トワイライトゾーン」などが有名だろう。僕は親から少し話を又聞きしたり、ビデオを借りたりして何羽か有名な話を見ただけなのだが、非常に面白かった。昔のこととて、非常に特撮が稚拙なのだが、それをカバーするのがストーリーと役者の演技である。ある老婆が出演している話で、彼女は熱演なのだが、なんか違和感があるなあこの演技はと思っていたら、最後の最後でそれには全て意味があったとわかったときの衝撃はすさまじいものがあった。

 また、ヒッチコック劇場もすばらしい。というかヒッチコックがすばらしいのだが、ヒッチコック劇場ヒッチコックの監督技術だけではなく、様々な原作者のレベルが高いからあれだけ面白い話を作れたのだろう。私は大学時代、学校の視聴覚室にあったヒッチコック劇場を全部見てしまった。いやあ楽しかったなあ。

 アウターリミッツ、新アウターリミッツも全部見たわけではないが、本当にすばらしくて、毎週その時間が楽しみでならなかった。この番組は、僕のために作っているのかなあ、と感じるくらいであった。「インデペンデンス・デイ」のようなSFとしては下の下のような作品も作るが、一方でこういう質の高い番組を作る彼らに、素直に脱帽したい。また、アメリカの作品なのに、アメリカニズムを否定的に扱っている作品が多いのも共感できた。SF者にとって、アメリカニズムなど狭い狭い。こちとら宇宙がお相手よ、という寸法なのである。

 その辺のくそがきを拘禁して、二三時間アウターリミッツ漬けにしちまえば、これで立派なSF者の出来上がり。成人式で酒飲んで暴れるようになる前に、中学生くらいのうちにSF狂いにしちまえば、少なくともあれよりはましな一輪者の一丁上がりってなもんだ。どこかにそういう骨のある恍惚漢はいないのか。

 中学教師、生徒に無理やりSFを見せて免職とか。浜崎あゆみが推薦したのでコギャルになぜかSFが流行るとか。あまりSF狂いの一輪者が増えてくりゃ、そのうち「SF脳の恐怖」なんて本が出るかも知れぬ。そしたら「ゲーム脳の恐怖」サイドから苦情が出るかもしれないが。「あんたの本こそSFだろう。」と言ってあげよう。

 十年くらい前だろうか、SFマガジンの中で、日本SFは冬の時代だとか、いやそうではない、という議論が発生したことがあるが、私に言わせれば「日本のSFに春も夏もまだ来ていない」のだ。アメリカで通用するようなSF作品は大御所小松左京をはじめとして数人の作家の名が思い浮かぶが、全体としてみれば、アメリカ人に対してわざわざ英語に訳してまで紹介したいような作品があまり思い浮かばない。アメリカ人の水準作に対して、日本の作家も引けをとらない同レベルの作品を生み出してはいる。数こそ少ないが。それは昔も今もい続けており、私はそういう日本人作家を心底尊敬している。だが、同レベルでは、だめなのである。圧倒的な傑作でなければ、アメリカ人が日本のSFを読もうとはしないだろう。

 この点ではむしろ日本の純文学のほうにアメリカ人は日本文化として興味を持つだろうから、SFよりは有利だと思われる。SFは宇宙がお相手だから、日本とかアメリカとかの違いはない。あるのは面白いか否かなのだ。

 グローバリズム、ちいせえちいせえ。グローブなんてなあ、銀河の片隅の「ソル系第三惑星テラ」のことですかい?あまりに未熟でしかも野蛮だってんで、「銀河連邦」にも参加を許されていない、あの未開の惑星のことですかい?

 だが、そんなに悲しむことはない。金さえ出せば、アメリカのSFドラマは見れるし、英語が読めれば、英語のSFを読むことが出来る。

 本当のことを言えば、アメリカのSFのレベルが高いのは、アメリカが科学も文学も芸術もレベルが高く、作者も読者も層がものすごく広く厚いからだ。悔しいなあ、日本のレベルは低いなあ。日本の頂点は別である。日本人だろうが、本当に優れた人は必ずいる。小松左京がそうだし、星新一もそうだろう。SFというよりはむしろあっちで純文学的に評価されそうなのが筒井康隆。童話では宮沢賢治がグローブレベルでの巨匠だと思う。

 今現役の作家にも、いい作家がいないわけではない。でも、でもなのである。やはり全体としての層の厚さと平均のレベルでは、SFも純文学も正直ぱっとしないなあ。でも、そうやって日本とかアメリカで見る考えがやはりSF者として修行が足りないのかも知れぬ。

 やはり宇宙レベルでものを見れば、アメリカの文化も我々の財産である。たまたま自分が日本に生まれたからといって、日本だけの知的資源だけで生きていく必要はない。こうして私はナショナリズムグローバリズムも解脱した一輪者である。この夢を見ているとき、絶対この光景は見たことがあると感じた。このようなアニメを見たことはないので、同じ夢を二度見たということなのだろう。

宗教的経験の諸相 上巻の感想 2005-01-20 23:22:10


 私はウイリアム・ジェイムズの名前は良く聞いていたものの、その著作を真剣に読んだことがなかった。「宗教的経験の諸相」は割合に有名で読んでみたかったが、長らく品切れ状態が続き、岩波文庫の古本を買おうとすると何千円もする時代がずっと続いていた。英語版を背伸びして買ってみたのはいいが、私の英語力には手にあまり、いつか読んでみたい本の筆頭で終わっていた。

 それが先日、神保町の岩波ブックセンターで復刊フェアで平積みになっているのを発見し、自分の店で売り上げを上げるためにわざわざ注文して購入した。

 ウィリアム・ジェイムズは英語の名文を書くということで有名なそうである。ある哲学の先生もそう言っていたし、岩波文庫の訳者解説にもそうある。日本語の文章を読んでみてもなるほど用意周到な論理展開は、さすがにアメリカ随一の学者のものである。

 とはいえ、当時のアメリカの心理学の現状やジェイムズの業績をほとんど知らずに読むと、かえってその周到さが冗長に思え、最初の方はかなり退屈を感じたことも事実である。その冗長さは全てあとになって生かされるのだが、こらえ性のない現代人にはいささか旧弊な印象もある。

 ジェイムズがこの本の元になった講演を行ったのは今からおよそ百年前のことである。当時は既に科学が相当の勢力を持っていたが、同時に宗教の側も強い力を保っていた。宗教を心理学の観点から論じることは、科学、宗教の両方の立場からの批判を受ける可能性があった。

 科学の側からは、宗教は単なるヒステリーなどの心理現象に還元できるのであり、宗教に価値を見出すものは、非科学的であるという圧力があったようだ。宗教側からは、心理学の用語で、宗教的体験を説明してしまうことは、宗教を一つの精神病理現象に貶めることだ、という圧力があった。

 ジェイムズは、宗教に高い価値を見出してはいるが、その現象に神学的な説明を与える樹はなく、あくまで科学の立場で臨みたい。だが、多くの科学者のように、宗教を単なる精神病理学の対称にすることもしたくない、という中道の立場なのである。そのために、ジェイムズは第一講、第二講を費やして、自らの方法論を力説する。しかし、このあたりは現代人の我々にはあまり興味のもてるものではない。読み飛ばすか、さっと速読する程度で十分だと思われる。

 第三講では、ジェイムズは「見えないものの実在」を論じている。これも周到なジェイムズの準備であって、心理学の立場で、宗教という非科学的な現象を論じるときの無用な抵抗をなくすためのテストケースといった意味合いがあるように思える。この辺も、現代人の我々が読むときは、「へえ、そういうこともあるのか」くらいの理解で十分だと思われる。

 次からジェイムズの本論に入るのだが、ただ読んでいるだけでは、ジェイムズの目指すところが今ひとつ理解できない。(少なくとも素人の私が読んだ時は。興味深いのだが、何を目指しているのかいまいちわからなかった。)そこで前もってジェイムズの目指しているところをある程度把握しておく必要がある。
 ジェイムズがこの上巻を通して主張したいことは、回心(オリエンテーション)についてなのである。回心とは、強い感情的体験を伴って、自分のあり方が一変するような現象である。多くの場合はキリスト教に目覚めるというものだが、ジェイムズによれば、逆にキリスト教を放棄し、無神論に目覚めるというものもある。内容は異なるが、それらには共通した要素が見出される。
 多くの場合、回心の前に分裂した自我の対立が激しく、長期間にわたって続いていることが見出される。道徳的感情と欲望など。いずれもそれぞれ不調和な自我の内容が対立している。それらの分裂した自我の内容が、回心によって、組み替えられ、新たに自我の重心が移動する。それはゆっくり長期にわたる場合もあるし、短期間に一気に変化する場合もある。
 自我の不調和の多くの場合は、我々の存在する世界が、善と悪(道徳的な意味だけではなく、良い天気悪い天気のような意味の良い・悪いも含む)の対立を含んでいるからである。ある種の人間はそのような悪、良くないこと、不幸にどうしようもなく直面させられ、人生に対して悲観的にならざるをえない。人生に対して極端に悲観的になっているとき、彼らは生きていく意欲など、自己のある要素を抑制しているわけである。彼らが自己の諸要素を統合し、抑制されている生の意欲を取り戻すためには、死を代表とする世界における禍をも含んだ世界観・自我の構成を獲得しなくてはならない。これが、「病める魂」の「分裂した自我の統合」である。
 このような悲観的な人物も入れば、生まれつき世界に「善」しか見出さず、そのままで宗教的歓喜を味わうことが出来る自然主義的、楽観的な性質の持ち主もいる。
 楽観的な魂の持ち主は、ただそれだけで宗教的経験を持ちうる。そのまま世界を肯定しうるが、悲観的な人物は、悪に対しても直面するので、生の意欲をそのままでは持てない状況になる。そこで比ゆ的な意味で一旦死ぬわけであり、そこで再び人生の悪の要素を受け入れた新しい世界観を構築して、生の意欲を取り戻す必要がある。それゆれ、そのような人物を二度生まれる必要があるので二度生まれと呼ぶ。

 このような大雑把な論理の流れを、ジェイムズは楽観的な一度生まれの人物の描写から始め、次に悲観的な人物、そしてその人物が矛盾する要素を自己に持たざるをえないこと、そしてそれが統合されうること、それがドラマチックに現れるとき、「オリエンテーション」になること。その時にしばしば、意識の高いところの部分が作用し、「見えないものの実在」を感じることがある、という風に語るのだ。全てジェイムズの周到な論理構成なのである。
 このことを念頭に置けば、ジェイムズの周到な論理構成を楽しんで読むことが出来るだろう。
 実際、先行するスターバックの主張を踏まえたジェイムズの回心観は興味深いものがある。

 下巻について、そして私の感想はまた機会を改める。

萌える夢を見た 2005-01-19 07:57:51

 昨日はいろいろ夢を見たのだが、久しぶりに萌える夢も見たのでそれを書いておく。

 時は2036年、世界のいろんな国から集められた少年少女だけで、宇宙船に乗り、太陽系観察をするというイベントが行われた。もちろん、基本的なことは大人がコンピュータでセッティングしているので、子供たちが宇宙船を操作するわけではない。宇宙旅行は無事終わり、子供たちはコールドスリープから覚醒して中央の大きな部屋に集まった。ここで華々しく地球のマスコミに成果を発表する段取りだったのだ。中央の巨大なスクリーンに映ったのは見慣れない老人の顔だった。老人は地球の代表者だという。ざわめく子供たち。2036年においても、まだ地球には国家があり、単一の統治機構はまだなかったからだ。

「君たちに辛い事実を知らさなければならない。君たちのコールドルスリープの間に、地球では何万年に一度の規模の、大災害が発生した。人類の居住可能な陸地はほとんど水没。奇跡的に残った島に、残された人類が集まって生活をしている。だから、そう出来るならば君たちは地球に帰ってこないほうがいい。美しいままの地球の思い出をそのまま持っていた方がいい。だが真実を直視してほしい。」

 スクリーンには世界中の町が水没している映像が映る。泣き叫ぶ子供たち。

 こうして、子供たちは文明が残された島に降り立ち、生活を始めた。奇跡的に文明が残された島は、急速に復興し、数年後には島だけならば崩壊前と変わらないレベルにまで到達した。だが、子供たちのうち何人かはギャング化し社会に適応できないでいた。また、島を復興した時点で社会が燃え尽きてしまったようになり、それ以上の発展をあきらめてしまったことも、子供たちには不満だった。

 このあとは夢で見ていないが、多分何人かの子供たちがもう一度なにかをたくらんで、宇宙に戻るという選択になると思う。

 内田樹氏と小松左京氏 2005-01-18 22:05:33

 内田氏のブログを最近良く拝読させていただいている。1月18日のブログから、引用させていただく。

 引用開始

 人類の祖先たちがはじめて葬礼を行ったときも、はじめて鉄器を使い出したときも、はじめて稲作を始めたときも、誰かが既成の「正しさの基準」に基づいて、「今日からわれわれは稲作というものを行うことにした、文句あるやつは死刑」というようなことをいったわけではない(たぶん)。
なんとなく、ずるずると始まったのである。
そのとき、「いや、われわれはキューリを主食にするべきだ」というような主張をした弥生人もいたかもしれない。
「南瓜がいいんでねーの」という人もいたかもしれない。
こういうことの適否を決定できる上位審級は当然ながら稲作文化の定着以前には存在しない。
しかし、そのうちに、誰が命令するでもなく「みんな稲作」になった。
投資する手間と回収できる利益のコストパフォーマンスを計測しているうちに、「ま、米だわな」ということになったのである。
私はこのような「長いスパン(100年単位)で考えたときの人間の適否判断能力」についてはかなりの信頼を置いている。
だから、当否の決定のむずかしい問題については「両論併記」や「継続審議」をつねづねお薦めしているのである。
「両論併記」というのは言い換えれば「誤答にも正解と同等の自己主張権を一定期間は保証する」ということである。
あまり知られていないことだが、「言論の自由」の条件の中には、適否の判断を「一定期間留保する」という時間的ファクターが入っている。
正解を急がないこと。
これが実は「言論の自由」の核となることなのである。
「正解を今この場で」と性急に結論を出したがる人は、「言論の自由」という概念を結局は理解できないだろうと私は思っている。

 引用終了

 この文章を読んで真っ先に思い浮かんだのが、小松左京氏の短編「オフー」である。これは読んだ人誰もが感動する傑作ではないだろうが、私は深く感動させられた名作である。ネタバレにならないよう最低限の紹介をすると、稲作を選んだ縄文人弥生人ではない)の立場を、現代に代入してみたというストーリーである。すなわち、縄文人にとって飢餓というものを避ける妙法として「コメ」がもたらされたときの衝撃と、現代にオフーという便利なものがもたらされたときの衝撃をダブらせたストーリーなのである。

 基本的には内田氏と小松左京氏のスタンスに大きな違いはない。内田氏も小松左京氏も大衆の選択能力をあまり高く評価してはいない。両人とも、大衆の判断は間違うことが多いという風に論じている。

 小松左京氏の作品には、よくプラトンの国家論のような科学者たちを中心にした合理的な統治機構が何回も登場する。それだけではなく、イデオロギーとしての社会主義ではなく、理性によって社会を設計するという点で小松左京氏は社会主義国にもある程度親近感を抱いていたような印象を受ける。ただし、小松左京氏はやはり単純ではない。同時に、そのような大衆もエリートも含めた人類の可能性そのものに、彼は深い懐疑を抱いているようである。そのような前提の作品もまた多い。

 小松左京氏のことは今は深入りするのはやめよう。私が言いたいのは、内田氏と小松左京氏の肉感的な感覚の差である。内田氏が仮想したような、「キュウリ」「かぼちゃ」などのいろんな主食候補を人々が試行錯誤してコストパフォーマンスがもっとも良い「コメ」に落着する(だから試行錯誤する時間と可能性が必要であり、誤っているであろう価値観も報道されるべきである)、というような想定自体を小松氏はまず描かない。小松氏が描くのは、本質的な変化こそ、知らないうちに忍び寄り、その是非を選択する余地などなく、圧倒的に到来するという事態である。

 小松氏の描く縄文人たちは、暴力的なまでに有利な「稲作」というものに大挙して飛びつく。飢餓の特効薬として。そのとき事実上、縄文人に選択の余地はない。稲作を採用したらどうなるとか、それと引き換えに失うものなど、飢餓による死というものを前にしたら、検討に値しない。気がつけば、それはもう既に「選択されてしまっている」のだ。

 内田氏の描く縄文人と、小松左京氏の描く縄文人、どちらも一つのたとえ話だから歴史的な観点からどちらが正しいかを論じるのは無意味だ。私が言いたいのは、そこには両人の感覚の差異が明瞭に現れているのではないか、ということなのだ。

 日常での様々な選択肢であれば、我々は選択して間違ったり成功したりして、結果としてだんだん正しい判断が生き残っていくかも知れず、その限りにおいては内田氏と小松氏は一致するであろう。だが、選択が本質的になればなるほど、小松氏はそれを我々が「選択」することが不可能になると感じている。

 陳腐な論法だが、ここには小松左京氏と内田樹氏の年齢が関わっているのではないか。小松左京氏は1931年生まれであり、学生時代に戦争と敗戦を体験している。内田氏は1950年生まれであり、そのような大転換を体験していない。(もちろん私もだが) 

 内田氏は小松氏のような大転換を想定して立論していないので、内田氏がそのような大転換についてどう考えているかはわからない。だが、こと戦争や稲作の採用などの場合、私個人は小松左京氏のリアリティに説得力を感じる。我々は気がつくと、常に、既に、その事態を選択しているあるいは投げ込まれているような存在なのだ。

 にもかかわらず、我々は、その事態を「選択」させられる。それ以外には有意味な選択肢がないからだ。稲さえ作れば、飢え死にしなくてすむのだ。「なぜ、お前はそうしないのだ」この問いかけに合理的、有意味な答えはない。それが地獄へ至る道であろうと、我々はそれを選択するのだ。

 小松左京氏はそれでも、「それ」(稲作のような、それ以外を選ぶことが全くの無意味、不合理になるような選択肢。それはほかに選ぶに値する選択肢もなく、そもそも選ぶ余地などなく、受け入れるしかないような選択肢なのだが)を選ばないという、非合理的な情熱を常に作品で描いてもきた。私も若いからだろうか、不合理ゆえに我信ずと言うようなところがある。内田氏の理屈がすっきりした論法にどうもなじめないときがある。それが正しいとわかっていても、正しいが故に受け入れたくないと感じるのだ。
 
 みなさんはどうお考え、あれは感じられただろうか。ともあれ、小松左京氏の「オフー」は是非読んでいただきたい。これだけは自信を持っていえる。 

仕事の悩み 2005-01-17 22:21:32

 人間は本当に悩んでいることは、なかなかこういうブログには書かないものだ。しかし、あえて自分を客観視したいので、抵抗を超えて書き込んでみる。

 昔から幼稚園から学校で、怒られてばかりいた。毎日何回も何回も怒られるのである。たまに怒られない日が続くと、いつまでそれが続くか日数を数えたりした。自分でもかえって不思議な感じがして怒られるとかえって安心する始末である。とにかくあらゆる場面で怒られるた。運良く先生に恵まれ、ひどい体罰は受けなかったが、廊下に正座とかびんたくらいは当然だった。全く反省しないわけではなく、むしろまじめなたちなのだが、何がどういけないことなのかがわかっていないのと、自制心に欠けているのだろう。少しも改善されなかった。

 今思えば軽い何かの障害ではないかと思っている。成績は良くないが、それは明らかに勉強をしないせいであり、知恵遅れというわけではなかった。情緒的な知恵遅れというものがあれば、それに近いと思う。

 とにかく普通ならだめとすぐわかることをやるのだ。非行少年は悪いとわかっているからあえてそれをやるのだが、僕はそういう判断が出来ないので、やってしまうのである。

 だんだん、周囲の同級生が大人になってくるにつれ、自分が溶け込めてないことはなんとなくわかり焦るものの、何がどうまずいかわからない。自信のない青年になっていき、その延長として今の自分がある。

 幸い、友人には恵まれた。私が何年もお付き合いいただいている方たちはビックリするほど多様であるが、精神年齢が低いからと私を全否定しないという点だけは一致している。

 それでも少しはいろいろ経験し自分なりに考えて、あくまで自分の中では、多少は成長した部分もある。だがそれは、外国語を、学校文法を使ってぎこちなく理解しているようなものだ。あるいは利き手でない方で箸を使っているようなものだ。
 要するに知能の部分で情緒を代行しているのだ。だからどうしてもぎこちなさが残り続ける。

 仕事においてどうしてこれほどというくらい失敗がおおい。ある間違いがなくなれば違うところでだ。本質的な問題は、変わっていないのだ。とにかく今は、人が普通に出来ることをせいいっぱい追いつこうと努力の日々だ。今までの人生で怠けた分苦しんでいる。だが首になるまでせいいっぱいやるしかない。

「私」と「他者」との同型性 2005-01-16 22:06:05

 私の試みは、中島氏の文章を逐一読解することではなく、自分なりに中島氏の議論を理解することであるから、必ずしも序論に記されているとおりに議論を進めない。必要と思われる程度に、中島氏の論の進め方と私の再構成の方法の違いについて言及する。

 さて、前回我々は、日常的に「了解」している「私」にたどり着かなければ、それはもはや自我論とは言えない、という前提を確認した。この前提からは、いくつも引き出せる命題があるが、私は「私」と他者の同型性について述べる。

 「私」を論じる際に当然浮かぶ問いとして、次のようなものがあるだろう。

(引用開始)

 さらに、「私」という言葉を自らに適切に使用するもの、「私は〜」と適切に語りだすものは膨大な数存在するのに、それらが皆同一の思惟方式によって同一の推論を経て、同一の結論に至る同一のコギトに帰着するのは何によって保証するのか。

(引用終了)5p

 コギトや思惟方式という用語に惑わされなければ、ここで主張されていることは明快である。ある自我論が、中島義道であるところの「私」に妥当するからといって、例えばこのブログの作者である「ろば」の「私」にも妥当する理由は何だというのか、ということである。
 また別の言い方で言い換えてみる。
 ある人の「私」には、他の人と全く違う構造が含まれているかもしれないし、何種類かの「私」があるかもしれない。それを考慮しないで、「私」を語ることの根拠は何か、ということなのである。
 「私」を「心」に置き換えてみると、この議論の意味がはっきりするかもしれない。中島義道が「中島義道の心」について述べたことが、他の人の「心」に妥当するべき理由は何か。中島義道やカントやろばの心に当てはまるからと言って、他の人の心に当てはまるという理由にはならない。もしカントの心に当てはまることが、他の人の心に当てはまると主張するならば、何がしかの根拠を示す必要があるだろう。

 あるAに妥当することが、他者に共通して成立することを、「同型性」と呼ぼう。(中島氏が序論で使っている同型性は、通常の同型性よりもはるかに多くの意味を担っている。その詳細を理解するには本論に入ってからでなくては出来ない。)ここではごく普通の意味の同型性しか使っていない。

 私の「私」と他者の「私」が同型性を持つという要請は何に根拠を持つのか。それは、日常における「私」のあり方に根拠を持つ。哲学的な懐疑でもしない限り、「私」の同型性は日常において前提とされている。故に、自我論もまた、同型性を期待したものとして成立しなくてはならない。「実は」同型性は崩れている、という議論をするためにも、一旦は同型性を前提としている自我論を明確にしなければならないであろう。(このような主張を中島氏は一切行っていない。私が付け加えた論理である。)
 
 議論を整理しよう。「私」の同型性が要求されるのは何故か。それは日常での「私」概念には、「私」という言葉を適切に使うものは、いずれも同じ資格で「私」であり、同一の推論によって、同一の自我論に到達するはずである、という了解があるからである。その日常における了解が本当に正しいのかは、この時点ではわからない。だが、仮にこの了解が間違っているとしても、一旦は日常における「私」概念をの了解を明瞭化し、自我論として構成した上で、「私」の同型性が実際には誤っている認識だと議論するべきであろう。

 今回の文章は、前回にも増して、私独自の前提を加えて議論を構成している。中島氏の「カントの自我論」序論を読まれた方なら、ほとんど関係ないとさえ評価するだろう。本来であれば、もっと中島氏の議論に沿った形で再構成すべきであるが、読めば読むほど、「序論」が実はかなり難解な箇所である。「カントの自我論」のエッセンスが縮約されていて、単純に読み解くことが難しい