アメリカ礼賛 2005-01-19 22:59:21

 私はSFが好きだ。大好きである。とにかく好きである。

(警告 この文章は、あるSFに狂ったもの暴言ですので、かなり不快感を与える表現が多く含まれておりますが、この作品の書かれた時代背景を考慮し、表現は著者の記したまま残しております。皆様のご理解を賜りたく存じます。)

 少しくどかっただろうか。

 SFは主に英米で特にアメリカで隆盛を誇り続けている。最近はグレッグ・イーガンなどオーストラリアの作家も活躍しているが、結局は英語圏であることには代わりがない。そして、そのうち映像作品ということにすると、断然アメリカのSFはすごい。(オーストラリア作品のマッドマックスというケースもあるが。)

 これはSFに限らない。アメリカの作品創造能力はものすごく大きいのである。これにはいろんな理由があるのだろうが、一つには正のフィードバックが作用しているのだろう。つまり、いい作品を見て感動したやつが自分もああいう作品を作りたいと集まってくる、そしてまたいい作品が出来るという連鎖である。

 子供のときちょっと見た「超人ハルク」も面白かった。超人ハルクはアメコミが原作だと思うが、そっちの方の設定は知らない。私が見たテレビドラマのほうは、何かの薬の副作用で、興奮すると超人ハルクに変身するようになった心優しい男が、アメリカ中をさまようという話であった。もっと細かい設定があったのかもしれないが子供だったのでよく覚えていない。

 ひっそり人知れず暮らしたいハルクが行く先々に、いわれなき苦しみを受けているかわいそうな人々がなぜか必ずいる。男はばれてしまうからあまり関わりたくはないのだが、見過ごすことも出来ず、ハルクに変身して悪を倒すのである。体を緑に塗ったマッチョな巨漢がこれまたなぜか近くにあるレンガの壁をぶち壊して登場するシーンが毎回あったように思う。少しでもハルクを巨大に見せるためか、いつもローアングル気味に映しているのが面白かった。

 映画版しか見ていないが、あの有名な「逃亡者」のテレビドラマの方も同じようなパターンなのだろう。主人公が毎回いろんな地方や職業の人々にまぎれて人助けをするというパターンがアメリ
カのドラマにあるのだろう。

 若い二人の青年が車で気ままにアメリカを横断する国道六十六号線を旅する「ルート66」や無口な賞金稼ぎの男が西部を旅する「拳銃無宿」も、基本的に同パターンであろう。これを見ているとアメリカという国があまりに広大すぎて、いろんなカルトやいろんな思想を持った閉鎖的な連中がいて、一見しただけではよくわからない、という感覚が伝わってくる。

 僕が地方テレビでやっていたドラマも面白かった。アメリカの諜報機関が子供のときからスパイを育て、あらゆる職業に成りすますことの出来る能力を持った青年を作るが、青年はその機関「センター」を逃げ出す。センターはいつしかアメリカの理想を追求する機関から何か邪悪な機関になっていったからだ。センターは同じくスパイ教育を受けた青年の幼馴染の女性を派遣して、男を捕まえようとする。しかし、センターの秘密とは、一体何か・・・。

 これも例のごとく、青年があらゆる職業に成りすましていると、そこに迫害されたり、事故に巻き込まれたりしているかわいそうな人がいて、それを助ける、そしてそこを去ったとたんに、ルパンと銭型よろしく女スパイが駆けつけて、「また逃げやがったな」となるわけだ。

 この話だけを書くと単純な話に見えるが結構面白かったのはストーリーがいいのと、細かいところまで気が配られているからである。

 またこういう話の系列とは別に、一回完結のSFやホラーなど、「奇妙な」物語をやる連続テレビドラマもアメリカが断然面白い。例えば「トワイライトゾーン」などが有名だろう。僕は親から少し話を又聞きしたり、ビデオを借りたりして何羽か有名な話を見ただけなのだが、非常に面白かった。昔のこととて、非常に特撮が稚拙なのだが、それをカバーするのがストーリーと役者の演技である。ある老婆が出演している話で、彼女は熱演なのだが、なんか違和感があるなあこの演技はと思っていたら、最後の最後でそれには全て意味があったとわかったときの衝撃はすさまじいものがあった。

 また、ヒッチコック劇場もすばらしい。というかヒッチコックがすばらしいのだが、ヒッチコック劇場ヒッチコックの監督技術だけではなく、様々な原作者のレベルが高いからあれだけ面白い話を作れたのだろう。私は大学時代、学校の視聴覚室にあったヒッチコック劇場を全部見てしまった。いやあ楽しかったなあ。

 アウターリミッツ、新アウターリミッツも全部見たわけではないが、本当にすばらしくて、毎週その時間が楽しみでならなかった。この番組は、僕のために作っているのかなあ、と感じるくらいであった。「インデペンデンス・デイ」のようなSFとしては下の下のような作品も作るが、一方でこういう質の高い番組を作る彼らに、素直に脱帽したい。また、アメリカの作品なのに、アメリカニズムを否定的に扱っている作品が多いのも共感できた。SF者にとって、アメリカニズムなど狭い狭い。こちとら宇宙がお相手よ、という寸法なのである。

 その辺のくそがきを拘禁して、二三時間アウターリミッツ漬けにしちまえば、これで立派なSF者の出来上がり。成人式で酒飲んで暴れるようになる前に、中学生くらいのうちにSF狂いにしちまえば、少なくともあれよりはましな一輪者の一丁上がりってなもんだ。どこかにそういう骨のある恍惚漢はいないのか。

 中学教師、生徒に無理やりSFを見せて免職とか。浜崎あゆみが推薦したのでコギャルになぜかSFが流行るとか。あまりSF狂いの一輪者が増えてくりゃ、そのうち「SF脳の恐怖」なんて本が出るかも知れぬ。そしたら「ゲーム脳の恐怖」サイドから苦情が出るかもしれないが。「あんたの本こそSFだろう。」と言ってあげよう。

 十年くらい前だろうか、SFマガジンの中で、日本SFは冬の時代だとか、いやそうではない、という議論が発生したことがあるが、私に言わせれば「日本のSFに春も夏もまだ来ていない」のだ。アメリカで通用するようなSF作品は大御所小松左京をはじめとして数人の作家の名が思い浮かぶが、全体としてみれば、アメリカ人に対してわざわざ英語に訳してまで紹介したいような作品があまり思い浮かばない。アメリカ人の水準作に対して、日本の作家も引けをとらない同レベルの作品を生み出してはいる。数こそ少ないが。それは昔も今もい続けており、私はそういう日本人作家を心底尊敬している。だが、同レベルでは、だめなのである。圧倒的な傑作でなければ、アメリカ人が日本のSFを読もうとはしないだろう。

 この点ではむしろ日本の純文学のほうにアメリカ人は日本文化として興味を持つだろうから、SFよりは有利だと思われる。SFは宇宙がお相手だから、日本とかアメリカとかの違いはない。あるのは面白いか否かなのだ。

 グローバリズム、ちいせえちいせえ。グローブなんてなあ、銀河の片隅の「ソル系第三惑星テラ」のことですかい?あまりに未熟でしかも野蛮だってんで、「銀河連邦」にも参加を許されていない、あの未開の惑星のことですかい?

 だが、そんなに悲しむことはない。金さえ出せば、アメリカのSFドラマは見れるし、英語が読めれば、英語のSFを読むことが出来る。

 本当のことを言えば、アメリカのSFのレベルが高いのは、アメリカが科学も文学も芸術もレベルが高く、作者も読者も層がものすごく広く厚いからだ。悔しいなあ、日本のレベルは低いなあ。日本の頂点は別である。日本人だろうが、本当に優れた人は必ずいる。小松左京がそうだし、星新一もそうだろう。SFというよりはむしろあっちで純文学的に評価されそうなのが筒井康隆。童話では宮沢賢治がグローブレベルでの巨匠だと思う。

 今現役の作家にも、いい作家がいないわけではない。でも、でもなのである。やはり全体としての層の厚さと平均のレベルでは、SFも純文学も正直ぱっとしないなあ。でも、そうやって日本とかアメリカで見る考えがやはりSF者として修行が足りないのかも知れぬ。

 やはり宇宙レベルでものを見れば、アメリカの文化も我々の財産である。たまたま自分が日本に生まれたからといって、日本だけの知的資源だけで生きていく必要はない。こうして私はナショナリズムグローバリズムも解脱した一輪者である。この夢を見ているとき、絶対この光景は見たことがあると感じた。このようなアニメを見たことはないので、同じ夢を二度見たということなのだろう。

宗教的経験の諸相 上巻の感想 2005-01-20 23:22:10


 私はウイリアム・ジェイムズの名前は良く聞いていたものの、その著作を真剣に読んだことがなかった。「宗教的経験の諸相」は割合に有名で読んでみたかったが、長らく品切れ状態が続き、岩波文庫の古本を買おうとすると何千円もする時代がずっと続いていた。英語版を背伸びして買ってみたのはいいが、私の英語力には手にあまり、いつか読んでみたい本の筆頭で終わっていた。

 それが先日、神保町の岩波ブックセンターで復刊フェアで平積みになっているのを発見し、自分の店で売り上げを上げるためにわざわざ注文して購入した。

 ウィリアム・ジェイムズは英語の名文を書くということで有名なそうである。ある哲学の先生もそう言っていたし、岩波文庫の訳者解説にもそうある。日本語の文章を読んでみてもなるほど用意周到な論理展開は、さすがにアメリカ随一の学者のものである。

 とはいえ、当時のアメリカの心理学の現状やジェイムズの業績をほとんど知らずに読むと、かえってその周到さが冗長に思え、最初の方はかなり退屈を感じたことも事実である。その冗長さは全てあとになって生かされるのだが、こらえ性のない現代人にはいささか旧弊な印象もある。

 ジェイムズがこの本の元になった講演を行ったのは今からおよそ百年前のことである。当時は既に科学が相当の勢力を持っていたが、同時に宗教の側も強い力を保っていた。宗教を心理学の観点から論じることは、科学、宗教の両方の立場からの批判を受ける可能性があった。

 科学の側からは、宗教は単なるヒステリーなどの心理現象に還元できるのであり、宗教に価値を見出すものは、非科学的であるという圧力があったようだ。宗教側からは、心理学の用語で、宗教的体験を説明してしまうことは、宗教を一つの精神病理現象に貶めることだ、という圧力があった。

 ジェイムズは、宗教に高い価値を見出してはいるが、その現象に神学的な説明を与える樹はなく、あくまで科学の立場で臨みたい。だが、多くの科学者のように、宗教を単なる精神病理学の対称にすることもしたくない、という中道の立場なのである。そのために、ジェイムズは第一講、第二講を費やして、自らの方法論を力説する。しかし、このあたりは現代人の我々にはあまり興味のもてるものではない。読み飛ばすか、さっと速読する程度で十分だと思われる。

 第三講では、ジェイムズは「見えないものの実在」を論じている。これも周到なジェイムズの準備であって、心理学の立場で、宗教という非科学的な現象を論じるときの無用な抵抗をなくすためのテストケースといった意味合いがあるように思える。この辺も、現代人の我々が読むときは、「へえ、そういうこともあるのか」くらいの理解で十分だと思われる。

 次からジェイムズの本論に入るのだが、ただ読んでいるだけでは、ジェイムズの目指すところが今ひとつ理解できない。(少なくとも素人の私が読んだ時は。興味深いのだが、何を目指しているのかいまいちわからなかった。)そこで前もってジェイムズの目指しているところをある程度把握しておく必要がある。
 ジェイムズがこの上巻を通して主張したいことは、回心(オリエンテーション)についてなのである。回心とは、強い感情的体験を伴って、自分のあり方が一変するような現象である。多くの場合はキリスト教に目覚めるというものだが、ジェイムズによれば、逆にキリスト教を放棄し、無神論に目覚めるというものもある。内容は異なるが、それらには共通した要素が見出される。
 多くの場合、回心の前に分裂した自我の対立が激しく、長期間にわたって続いていることが見出される。道徳的感情と欲望など。いずれもそれぞれ不調和な自我の内容が対立している。それらの分裂した自我の内容が、回心によって、組み替えられ、新たに自我の重心が移動する。それはゆっくり長期にわたる場合もあるし、短期間に一気に変化する場合もある。
 自我の不調和の多くの場合は、我々の存在する世界が、善と悪(道徳的な意味だけではなく、良い天気悪い天気のような意味の良い・悪いも含む)の対立を含んでいるからである。ある種の人間はそのような悪、良くないこと、不幸にどうしようもなく直面させられ、人生に対して悲観的にならざるをえない。人生に対して極端に悲観的になっているとき、彼らは生きていく意欲など、自己のある要素を抑制しているわけである。彼らが自己の諸要素を統合し、抑制されている生の意欲を取り戻すためには、死を代表とする世界における禍をも含んだ世界観・自我の構成を獲得しなくてはならない。これが、「病める魂」の「分裂した自我の統合」である。
 このような悲観的な人物も入れば、生まれつき世界に「善」しか見出さず、そのままで宗教的歓喜を味わうことが出来る自然主義的、楽観的な性質の持ち主もいる。
 楽観的な魂の持ち主は、ただそれだけで宗教的経験を持ちうる。そのまま世界を肯定しうるが、悲観的な人物は、悪に対しても直面するので、生の意欲をそのままでは持てない状況になる。そこで比ゆ的な意味で一旦死ぬわけであり、そこで再び人生の悪の要素を受け入れた新しい世界観を構築して、生の意欲を取り戻す必要がある。それゆれ、そのような人物を二度生まれる必要があるので二度生まれと呼ぶ。

 このような大雑把な論理の流れを、ジェイムズは楽観的な一度生まれの人物の描写から始め、次に悲観的な人物、そしてその人物が矛盾する要素を自己に持たざるをえないこと、そしてそれが統合されうること、それがドラマチックに現れるとき、「オリエンテーション」になること。その時にしばしば、意識の高いところの部分が作用し、「見えないものの実在」を感じることがある、という風に語るのだ。全てジェイムズの周到な論理構成なのである。
 このことを念頭に置けば、ジェイムズの周到な論理構成を楽しんで読むことが出来るだろう。
 実際、先行するスターバックの主張を踏まえたジェイムズの回心観は興味深いものがある。

 下巻について、そして私の感想はまた機会を改める。