仕事について 自分で仕事を作り出す能力 2005-01-21 22:39:42

 以前、ブログで何か軽い障害でもあるのではないか、と思えるくらいに、私の生活能力、人間関係能力のある部分が劣っている、という話を書いた。今日はその続きを書こう。愚痴になるが、私は、別にブログで汚い自分のストレスを吐き出したってかまわない、と考えている。ただ、同じことを繰り返し愚痴るのは、自分にとって時間の無駄だから、何か付け加えることが出来たときだけ、新しい仕事の悩みをここに書くことに決めてある。

 さて、幼少期から、何をやっても場違いで、怒られてばかりという人間がどのような防御策をとるかというと、一番ありうるのが「出来る限り余計なことはしない」という消極性を身につけるということではないだろうか。少なくとも私の場合はそうで、冷静になればなるほど、できる限り余計なことはしない、という姿勢を貫くようになった。

 容易に予見できるはずのことだが、このことによって、私の生活能力や対人能力の成長は、余計に遅れることになった。人間は失敗していろいろ学ぶものである。失敗を恐れて何もしなければ、成長はない。

 そして世の中、自分を中心にして回っているのではないのだから、自分から身を引く人のことなど、放っておかれる。私もどんどん社会の中心から放っておかれるようになった。それでも、「奇行」はやまないから、目立ちはし続けるが、もはや中心人物ではない。「悪目立ち」という奴である。

 人間いくつになっても成長できるというのも真実だが、成長するのに向いている季節というは確実にある。極端な話だが、トイレのしつけを大人になってからするのでは遅すぎる。もっと普通の例で言えば、恋愛関係とか、友人と喧嘩をするとか、皆で力をあわせて何かをやるとか、そういう経験をするには少年期や青年期が一番向いている。社会も、そういう事柄での失敗に関しては、その年代の人間には当然甘い。

 これもうまく出来ていないことの一つだが、恋愛というものも、本来であれば、思春期に挫折したり苦悩したりするべきことであろう。それを無視したり、大人になっていきなり直面したり、避け続けたりすればするほど、問題は大きくなり扱いづらくなる。

 私が今直面しているのは、ごく基本的な生活習慣「きちんと行動する」、ができないということだが、それだけではない。「自分で考えて、自分のやるべきことを見つける」ということもまた出来ないのだ。

 その原因は最初に述べたように、失敗を恐れて行動をしないようしないようにする、むしろそれが社会のためだと思い込んでいる、という自分の人生にある。長い間アルバイトをしてきたが、基本的にはアルバイトはルーティンワークが主であり、私のような指示待ち人間には都合がいい。

 しかし、私が今直面しているのは、自分で自分の仕事を見つけ作り出すという能力なのである。こういう能力は大げさに聞こえるが、実は誰でも持っているものである。自分の家を見回し、何かすることがないか、掃除は、洗濯はそういえばやりかけの仕事があったっけ、という具合に仕事を見つけるということは、生きていくうえで基本の力である。いうまでもなく、私は掃除も洗濯もいやいやするだけで自分からアクティブにやったことなどない。

 このように自分で自分の欠点を指摘しても何一つ改善はしない。しかし、努力を始めることは出来るだろう。一日一日を、自分のやれることを精一杯やる、それしかないではないか。疲れてだめになったら、辞めればいいだけの話だ。

 前回の仕事の悩みを書いたときは、まだ仕事を受動的に考えすぎていたように思う。本来仕事はもっと自分で見つけ作り出すべきものなのだ。システムを使いこなすのは、あくまでその前提に過ぎない。とりあえずは、空いている時間が出来たときにするべきことを、幾つか考え、実行しようとするということをしているが、そういうことでいいのか、またするべきことが全然見えてこない(人がやって初めて、ああ、それがあったかと気づく)ということも問題だ。

 このことも、実践の中で何かわかってくることがあれば、ここに書こうと思う。
 そこで、つたないながら、私のような素人が途中で挫折しないよう、簡単なガイドマップをこのブログの書評でやってみようと思う。

*文章修行 2005-01-22 23:04:14

 以前文章修行ののために、自分で気をつけることの一つとして「段落の最初の文章と最後の文章を意識する」というものを心がけているとこのブログに書いた。だが、実践してみるとなかなか難しい。その上、思ったより文章が読みやすくならないようだ。何故だろう。
 おそらく、段落の最初と最後の文章に着目するこの方法では、その段落の中での整合性は獲得できても、段落同士の整合性は獲得できないからだろう。やはり、文章とは段落同士できちんと連関していなければ、読者にとって理解しづらいものになる。
 ではどうすれば、段落同士の整合性を獲得できるか。やはり、段落同志のの最初の文章と最後の文章のつながりを意識する必要がある。つまり、段落同士の接続表現に注意するということになる。
 だが、文章全体の整合性を獲得するには、段落同士の接続表現を意識することは、必要だがそれだけでは十分でない。何故なら、この方法だけでは、隣り合う段落同士の連関しか調節できないからだ。ここの論点のつながりは明瞭だが、結局文章全体で何が言いたいのかわからない、となりかねない。昔「言語明瞭意味不明」という政治家を揶揄した流行語があったが、そのような文章になる可能性がある。
 このように考えてくると、文章全体の連関を得るために、文章の最初と最後の連関が大事だということがわかる。そしてその最初と最後の中間地点で読者が混乱しないように、接続表現に気をつける必要があるのだ。

 今までの所を要約すると、「文章全体の整合性を得るためには、まず文章の最初と最後の連関を考え、段落ごとの接続表現に気をつけて、文章の最初から最後まで読者を混乱させないように案内する」ということになるだろう。

 だが、一つ問題がある。私がブログに日記を書くときなど、漠然と書きたい話題が心のそこにあるのは確かだが、それが明確に主題化できているとは限らない。むしろ、自分で文章を書きながらああでもない、こうでもないと寄り道をした結果、自分が言いたかったことがやっと見えてくるというのが普通だ。このような文章は最終的に到達した意見とは関係のない寄り道がたくさん含まれていて、読者は混乱してしまう。このように、書く前に何が結論になるのかわからないときは、どう書いたらいいのか。

 普通に考えれば、「推敲」の作業が必要だというのが、答えだろう。つまり、一旦書きあがった文章を読んでみて、結論に関係のない余計な部分は削り、結論にたどり着くために足りない部分を補うのだ。これはこれで十分な対策だ。
 だが、「推敲」の作業も手間といえば手間である。結局「推敲」するにしても、そもそも訂正箇所が少なければ少ないほどいいはずだ。どう書いていけば、あとで推敲したりする必要がない文章が書けるか。
 今のところ、私には決定的な解決は思い浮かばない。しかし幾つか候補は持っている。文章を書いているとき、結論部分がわからないにしろ、書き出してはいるわけだから、大まかなイメージぐらいは浮かんでいるはずだ。そのイメージを明確化する過程で、結論とは関係ない試行錯誤が行われ、文章の整合性を損なうのだ。だからといって、試行錯誤を行うなというのでは、文章を書く楽しみが半減するというものだ。あくまで試行錯誤をした上で、なおかつ文章の整合性を保ちたいのだ。

 完全な答えではないが、試行錯誤を整合的に記述するという方法はどうだろうか。ああでもない、こうでもないという書き手の試行錯誤は、読者が文章の冒頭の主張を読んだときに思い浮かぶ疑問でもある可能性が高い。そうであれば、仮にそういった試行錯誤なしに冒頭から結論に一直線にたどり着いたとしても、読者の頭には「ああではないか、こうではないか」という疑問が残り、説得力が薄れてしまうだろう。実際に、そういう試行錯誤を除外した推論では間違って結論してしまう可能性が高い。ならば、試行錯誤を試行錯誤としてきちんと意識して文章を書く必要がある。そうすることで、書き手は結論をたどり着きやすくなるし、読者は試行錯誤を適切に示されることで、書き手の示す結論に納得しやすくなる。仮に結論にたどり着かなくても、ああでもない、こうでもないと試行錯誤した経過を整理して示すことは書き手にも読者にも有益である。
 
 文章を整合的に書くには、まず段落同士の接続表現を意識する。そして、言いたいことがある程度明瞭な場合は、冒頭と結論に注意して書くこと。そうでない場合は、試行錯誤をしながら、書き手は結論を目指すことになるが、その試行錯誤の過程をきちんと整合的なものとしてしめすこと。
 これは、ある主張をするようなタイプでない、エッセイのような、全く漠然と書き始めた文章であっても、だんだん書きたいことのイメージが固まってくるとしたら、そのイメージが固まってくる過程をきちんと書く、ということでもある。

 これだけではやはり整合的な文章を書くには足りないかもしれないが、とりあえず試してみる価値はあるだろう。不都合があれば、またその時点で訂正していけばいい。

日記2005-01-24 08:02:37

 読書

 ソフィーの世界アリストテレスの項まで読み終わる。少しづつ英語が難しくなってきた気がする。アリストテレスが自然を様々に分類したという話を聞いて、ソフィーが自分の散らかった部屋を片付けるところが面白かった。自分も部屋を片付けたくなり、アリストテレスの哲学がどのようなものか気になったので「アリストテレス入門」を購入して読み始めた。

 「宗教的経験の諸相」は中断した形になったが、もちろんこちらも早く読みたい。ブログで引用抜粋して、私なりにまとめたいのだが、本に書き込むのはいかにもためらわれるので、引用しようと思ったところにはポストイットを貼ることにした。うまく行くかわからないが、とりあえずやってみる。