「『私』とは何か」をどう問うか。 2005-01-16 16:48:16

 さしあたっての主題は、もちろん「私」とは何かという問いである。
 この問いは、我々にとって未知である概念Xを求めている問いではない。何故なら、このような問いを発するものは、既に「私」という概念を日常的に使いこなしているからである。つまり、我々は既に「私」がいかなるものか、厳密に言語化できなくても、何がしかの「了解」を持っているのである。故に、この日常的に「了解」している「私」にたどり着かない自我論は、もはや「『私』とは何か」という問いを問うているのではないことになる。

 まとめて言い直すと、こうなる。
 我々は、「私」が何であるか既に「了解」している。その「了解」に戻ってこない自我論は、もはや自我論ではない。

 この前提が、中島氏の議論の基本方針である。これを(賛成するか反対するかは別として)理解しなければ、中島氏の議論は恣意的に見え、理解しにくいものになる。何故なら、中島氏は論理的には様々な議論の可能性か゛あるところで、多くの可能性を議論せずに遮断しているからである。だが、それらの可能性は、日常における「私」の了解から離れたものなので、自我論として中島氏は扱わないのである。つまり、どれほど抽象的で難解に見える議論も、中島氏の議論である限りは、必ず日常における「私」にたどり着くための議論なのである。

 無論、日常的な「私」の「了解」か゜間違いを含んでいたり、不完全である可能性はある。だが、それを指摘するためにも、日常的に了解されている「私」にたどり着く必要があるだろう。よって、私には、中島氏のこの基本方針は正しいと思われる。ごく当然な主張である。

 では何故このような当たり前のことを、中島氏はわざわざ主張し確認するのか。それは、多くの哲学者が「私」を求めて議論を始めたはずなのに、「私」とはかけ離れた抽象的な概念を構成して、それを答えとしているからである。

 そして実はカントこそ、教科書的な哲学の解説では、抽象・難解派の最たるものとして紹介されるのがむしろ普通だという事情がある。だから中島氏がこの基本方針を掲げるのは、自我論としての意味だけではなく、通俗的カント像の破壊という意図もある。

 以上の議論をよく補強する部分を引用しよう。特に断らない限り、引用は全て「カントの自我論」からである。

(引用開始)

 「私とは何か」と私が問うとき、私はすでに「私とは何か」を知っており、そのあり方を問うているのだ。

(引用終了)3P

「死」を主題にして哲学を学ぶ 2005-01-16 12:46:19

これから少しづつ哲学の勉強を、このブログを中心に発表しながら続けていきたい。だが、ある程度テーマを限定しなければとりとめがなくなるので、最初にテーマを決めておく。

 我々は死んだらどうなるだろうか。この問いには、古くから様々な答えが出されている。しかし、どれが正しいのか。あるいは、そんなことは、知りえないことなのだろうか。それならそれで、知りえない理由もきちんと理解したい。このようなテーマを念頭において、勉強を進めていきたい。

 具体的には「カントの自我論」中島義道 日本評論社 を読んでいきながら、必要に応じて他の本も取り上げていく。何故この本を使うのか。それはこの本が難解なカントの自我論を解説した本なので、普通に哲学の勉強になるからという理由が第一。また、この本で扱われているテーマが時間論にも関連しているので、ひろがりがあるのが第二。最後に、この本で直接扱われていない「死」を自分なりに考えていきたいというのが第三。

 どのようにこの本を使っていくのか。「しつこくちまちまと」引用し、自分なりに言い換え、疑問点や自分の考えを述べていく。また、出来るだけ一つのテーマを一回のブログで扱う。そうしないと話が錯綜しがちだからである。

内田樹氏の「自立とは何か」を読んで ver1.00 最終投稿 05.01.05 2005-01-15 14:05:23

 内田樹氏のブログの一月十四日の「自立とは何か」という文章を読み、改めて自分が内田氏の表現を借りれば、「幼児的な大人」であるとことを確信した。そして同時に、私はこのまま幼児的な大人を徹底していこうと思った。

 引用開始

しかし、「幼児的な大人」は、何が「自分に依存しているのか」をことばにしようとする習慣がない。
自分がいることで何が「担保」されているのか、自分は他の人が引き受けないどのような「リスク」を取る用意があるのか、自分は余人を以ては代え難いどのような「よきこと」をこの世界にもたらしうるのか、といった問いを自分に向ける習慣がない。

 引用終了

 人間は皆一人では生きていけない。それは誰にとっても成立する事情である。このことを私は常にまざまざと実感している。(特に永井均氏の著作に触れるようになってから、そのことをよく痛感するようになった。)人は集団で支えあわなければ、生きていけないのである。だからこそ、一人だけ抜け駆けするやつを許さない。(私の存在そのものが、他者に依拠している)

 文化も宗教も、人間は一人では生きていけない(人間を社会に関係付けさせ続けなければ社会が崩壊してしまう)という条件に規定されている。常に絶えず、その条件は、私に社会的存在であれと圧力をかける。

 「幼児的な大人」とは、そのような社会の「真・善・美」からの働きかけにうまく応答していない大人のこと指すのではないだろうか。 

 彼らは社会の恩恵にあずかりながら、そのことを自覚しないし、その恩恵を引き受けて己の役割を果たそうとしない。(内田氏のイメージしていることとは、かなりのずれがある私の再定義であるが、厳密な論争をしたいのではないのでご容赦いただきたい。)

 もう少し内田氏のブログから引用を続ける。

 引用開始

生きている限り、私たちは無数のものに依存し、同時に無数のものに依存されている。その「絡み合い」の様相を適切に意識できている人のことを私たちは「自立している人」と呼ぶのである。
だから、自立している人は周囲の人々から繰り返し助言を求められ、繰り返し決定権を委ねられ、繰り返しその支援を期待される。
「私は自立している」といくら大声で宣言してみても無意味である。
自立というのは自己評価ではなく、他者からの評価のことだからだ。
部屋代を自分で払っても、自力でご飯をつくっても、パンツを自分で洗っても、助言を求められず、決定権を委ねられず、支援を期待されていない人は、その年齢や社会的立場にかかわらず、「こども」である。

 引用終了

 社会からの恩恵を自覚するだけではだめである。大なり小なり、われわれは社会にとって何らかのリターンを与えなくてはいけないとされている。時給千円に満たないアルバイトであっても、それを突然やめたら誰かが困るというレベルから、親不孝な子供でも死んではいけない、というレベル、どうしようもない犯罪者だが、何故だか女性の心をひきつけるというレベルまで、ありとあらゆる関り合いの様相の中で、人は位置づけられざるをえない。

 社会は自立している人を求めるが、だからといって「自分で自分の生活を維持している人」を求めているのではない。それを踏まえてさらに、さまざまなレベルにおいて誰かの「呼びかけ」に応答し、何がしかのものを引き受けてもらうところまでいって欲しいのである。

 都会に住んでいると、仕事以外にはごくわずかな人間関係しか持たず、その仕事も誰かと交換可能性が極めて高い孤独な生活者がたくさんいる。そういう人々経済的には自立しているが、この文脈では内田氏的にはただ孤立しているだけである。呼びかけられることがない。故に「自立した大人」じゃないのだ。

 内田氏の主張は、その表現が内田氏の独特なだけであって、その根本は道徳の根本原理である。

 内田氏の議論には、まずこう言いたい。私は経済的には自立したいが、内田氏のような意味での「自立」をアプリオリに望ましいものとは感じない。内田氏の議論は、「何故自立するべきか」という問いを飛躍した上に成立している。その辺が私に違和感を与える。

 私は子供のころから漠然と、そして哲学に関心を持ってからますます、この「自分に出来るよきこと」という発想を避けるべく自分を訓練してきた。それは根本的に偶然的なことごとであり、それを引き受けて自らに必然的なものにするかどうかを、少しでも自分の側で選択したいと感じるからである。

 人間の可能性の空間というものを考えたとき、今の社会に認められうる可能性の空間は、そのうちのごく一部しか占めていないであろう。江戸時代の子供の中には、無数の数学の才能を秘めた人々がいたであろう。しかし、高等数学がほとんどの子供にいきわたらない状況では、そのような子供の才能はむなしく朽ち果てたに違いない。ウィトゲンシュタインは哲学の天才的な才能を持っていたが、フレーゲラッセルの記号論理学という「取っ掛かり」がなかったら、既存の哲学にはあまり関心がなかった彼は、哲学の世界に入っていけなかったに違いない。アインシュタインは後半生を重力と電磁気力の統一を目指したが、当時の限られた科学の知見では成功させるのは難しかっただろう。彼が今、あるいは百年後に生まれていれば、彼の才能をもっともっと生かせたかもしれない。北朝鮮ではどうしようなく落伍者となるような男も、日本では漫才師として成功できるかもしれない。本来はやさしい穏やかな人間になる可能性を秘めた人間が、厳粛な家庭に生まれてしまって萎縮した惨めな人格を持って生涯を終えないといけないかもしれない。

 ぐだぐだと書いてきたが、いいたいことは、単純である。「自分」は社会に徹底的に規制・規定されているのだが、それは常に「偶然」の要素を持つ。そしてそれら全てに「付き合う」必要を私は感じない。何がしかのその社会における損失を被ったとしても、「応答しない」という選択肢もわれわれには与えられている。これが言いたいのだ。

 群れを率いて動物を年中追いかけているレベルの社会では、社会の縛りは非常に強いがこれだけ豊かに膨れ上がった社会になると、社会に寄生して生きていく可能性がかなり出てくる。そういう緩んだ社会だから、大人になっても自分が引き受けるべき(とされる)人間の呼びかけに答えない内田氏いわく「幼児的な大人」「自立していない人」が大量発生しうるのだ。内田氏の依拠する価値観は、「それは本当の自立ではない。」「自分らしく生きているようでそうではない」と、価値を我々から簒奪する。

 内田氏が意図的にか無自覚にか、触れていない前提がある。それは無数の他者からの評価、呼びかけを適切に自覚できれば、必ず人はそれに応答するはずだ、という前提である。いかに精密に感情の機微を把握し、理論的な社会への認識が出来ていても、それに「応答」しなければ、その認識を「きちんとした」認識とは内田氏の中では呼ばないのだろう。「それは理論理性で単に相手の状況を推論したに過ぎない。目の前で苦しむ人間のメッセージを受け取るということは、それに答えると言うことである。」という仮想の答えが浮かぶ。

 私は、呼びかけを自覚はしても、必ず応答することはしない。しないように心がける。偶然でしかない社会からの呼びかけに応答している時間が私にはない。私の立場は、「自立」という問題系自体に本質的に関わらない、というものだ。

 内田氏の言うところは、結局は高等な嘘であると思う。「何故人は自立するべきか」「社会に依存しているからと言って、それをそのまま享受するだけにとどまってはいけないのか」という疑問を初めから除外してしまっている。

 また、こういう私の議論を批判する人は必ずいるが、その人もある前提に基づいている場合がある。思想や意見を発表することは、社会への貢献や、自分の望む社会への影響を目指している、というものだ。当然私は社会が崩壊すればいいなどと願っていない。皆様にはできるかぎり社会に貢献しあい、依存しあっていただいて、大いに守り立てていただきたい。私はその社会に寄生して、どうにか自分のやりたいことをやるだけだ。そして似たようなことを考えている人がいれば、私に賛成するだろう、それだけのことなのである。

 そうではない、「自分だけ」で可能性を拓くことなど出来ない、常に「他者」に自らを開くことこそ、「自分」を開いていくことなのだ、云々という高級な反論もよく耳にする。私も他者の存在を大いに活用していくつもりだ。とにかく、「それは本当の自分ではない。」とか「本当の可能性を拓いているのではない。」云々というのは、極めて高級な社会の構成原理である「嘘」である。

 私が永井均氏の著作を読んでやっぱりいいと思うのは、氏の哲学がそういう種類の「嘘」をあまり含んでいないという点である。氏の哲学が丸ごと偽であるということはかなりありそうなことである。実際その可能性が高いと常々思っている。

 だが、彼は善なる嘘はほとんど語っていない。語っている場合もあるが、それは社会的に語ることが必然的に「嘘」になってしまうという構造的な場合によることが多い。

 私はたまたまフリーターで社会的責任を全うしているとはいえないが、私がどれほど社会的能力があろうと、私のような信念を持って、社会的な呼びかけを意識的に取捨選択して、他者の方から自分を規定しないように心がけている人はいるはずである。

 内田氏の言辞は「カッコーの巣の上で」のラチェット婦長の言葉と似ている。社会にうまくとりこもうとして患者たちを「自立」へと向かわせているのだ。

 永井氏の場合は読者のどれだけがそう受け取っているのかはわからないが、本当に残酷で無責任である。内田氏のように、彼は社会的な脈絡で応答していないから、哲学をするから就職しませんという青年に、「君が自分のやりたいことをやりたくてそうするなら結構。しかし、それでは人生において一生楽しい思いは出来ないし、自分に対して自分を尊敬する気持ちももてなくなると思うよ」といったアドバイスはしない。(そして私は、この内田氏のアドバイスは正しいと思う。私がこうした正しさが成立する次元でだけ終始したくない、というだけである。)

 永井氏は自分に対する敬意を抱くべきなどと「いわない」。そう読んでいる人がいれば、誤読である。そもそも読んだ人が、「じゃあどうすれば」という次元で話していない。だから彼の意見はそもそも公共の場で発表するべき意見ではない。まともな人ならば、相手にしないのが一番である。

 だからこそ、哲学は面白いという愚者は確実に(少なくともここに一人いる)。愚者であり、社会的弱者であり、貧者であるが、患者ではない。

 しかし内田氏の側ははるかに優勢である。彼は、真であり、善であるから。

 私は、そもそも社会からの「呼びかけ」とか、「自立」という問題系自体を無視する。それは作られた問題系である。何のためにか?それは何回も述べたように社会の巧妙な仕組みなのである。無視するというと問題がある。実は知っているのだが、それを知らないと言うことにする「否認」が適切な言葉かもしれない。

 ややこしい言い方だが、かつてマルクス主義は、明らかに時代にそぐわなくなっていても、力強いイデオロギーで「乗り越え不可能」と呼ばれた時期があった。それは、マルクス主義が時代遅れではあっても、経済・社会・人文科学系のパースペクティブを統一的に与える世界観だったからである。

 そのような明らかにそれは正しくないのだが、それと同じ土俵に乗っかる対抗概念が見つからない場合、それを「否認」するという方策がある。

 私は、あくまで非合理的な衝動にのみ耳を傾ける。

 私は、マックみたいにラチェット婦長に殺されないよう、力を蓄え、機会をうかがわなければいけない。カフカではないが、掟の門は常に「私のために」開かれているのだ。 

杉田かおる結婚 2005-01-14 23:01:59

 杉田かおるが結婚。芸能ネタ好きな私としては、見逃せないニュースである。だが私が気になって仕方がないのは「負け犬から勝ち犬へ」というマスコミの論評の仕方である。
 「負け犬」。これは差別的表現ではないのか。杉田かおる自身が自分「負け犬」と言っているとしても、マスコミまでそうやって煽ることはないと私は思う。私は自分でも良くないと思っているのだが、かなり差別的心性の持ち主であり、それを出来るだけ表に出さないように心がけている旧弊な人間である。その私でさえ、いわゆる新聞やワイドニュースで「負け犬」と堂々と表現するのは、やりすぎだと感じざるを得ない。
 私は差別的なジョークや話題が嫌いかといえば、むしろ大好きである。ブラックユーモアで有名な筒井康隆の本などは、ほとんどを中高生のうちに読破していたくらいである。筒井康隆の作品がブラックユーモアに満ちている(というかそれが主題)ことは、本の解説にも書いてあるとおりなので、嫌いな人は読まなければいい。もちろん線引きが難しいことは承知の上だが、原理原則としては受け取り手が選択できるメディアでは差別的表現も許されるべきだろう。
 (断筆宣言まで引き起こした問題はあれが国語の教科書に採用されたからであり、あれは短編として発表されてからかなりたつのに、その間はあそこまでの筒井バッシングは起きなかった。しかし仮に教科書の採用された作品だとしても、厳密には差別だとは言えない面もあると思う。配慮がない作品だとは言えるが。)
 しかし、公的なメディア、テレビ・新聞などではそういう表現は許されるべきではない。(ホームページはどうなのだとか、そういうことは今はおいておく。)「負け犬の遠吠え」という本も、気に食わないなら全く読まないですむ。だが、朝起きて出勤前にテレビを見ていたら、アナウンサーが笑顔で「ついに脱負け犬。あの杉田かおるさんが電撃結婚です!」というのは避けようがない。こういうのはやめるべきである。
 私も、当然のことだが、例え冗談でも面と向かった相手が傷つくような話題は絶対しないように心がけている。もちろん私も人間だから完璧ではないが。また、差別的なジョークを楽しむことはあっても、日常での利害に絡むことにおいては絶対に差別的な待遇をしないようにしている。これは自分のプライドにかけて心がけている。逆に言えば、そういう背景があるからこそ、言葉の上でそういうジョークを楽しむことが出来る。自分が誰かを具体的に差別している自覚があれば、そういうジョークを楽しむことは、少なくとも私には出来ない。本来は差別ジョークを楽しむこともいけないのだが。
 それにしても「負け犬」とはひどい言葉だと思う。少し前に流行った「勝ち組」「負け組」というのは主に企業の経済活動を表現したもので、企業が経済的な成功を目指しているのは当然だから差別とは言えない。だが女性は、子供を生むために存在しているのではない。子供を生むことが人生の目標でもない。もちろん、子供を持つことを生きがいにしている女性は、それはそれですばらしい生きがいである。だが、全ての女性がそういう生きがいを持つべき理由はどこにもない。それに、子供を持ちたくても体の原因で子供が持てない人のことを考えたら、絶対に使うべき言葉でない(くどいようだが公的なメディアで)言葉だ。こういうことは常識じゃないのか。
 同じく、「オニババ」という表現を使って、出産しない女性を出産するように促しているらしい本も売れているという。出産は人生において大切な経験だから、女性がいろいろな障害で出産を回避してしまっているから、そういう女性を出産するように促す本らしい。その本の趣旨自体には反対はしない。何より読んでいないので。しかし、「オニババ」とか軽々しく使っていいのか、という気がしてならない。体の原因で生めない女性(その配偶者の男性に原因があるときは男性)を考えているのか、というのがまず第一点。
 あくまで本の宣伝文句を見た限りでは、子供を出産しないことでエネルギーをもてあまし異様な存在となった女性が、昔話の世界で「オニババ」といわれたのではないか云々とある。だが、そういう昔の封建的な女性へのイメージを反復しているだけではないのか。そういう固定観念は、決して生かすべき古の知恵ではないだろう。そういうセンセーショナルなキーワードを使わずに、出産のすばらしさを説くべきではないのか。
 
 こういうことは他人事ではない。社会的に非難されうる階層、グループは無数にありうる。「差別」的表現の難しいところは、その中核にはそれなりに正しい批判が含まれているところから発生している点である。つまり、出産も毛嫌いするよりは生んだほうがいいという批判は正当でありうるだろう。だが、それが一人歩きして「バッシング」へとつながる。
 「負け犬」と同じく、私が属している「フリーター」という階層も、それ自身社会的にいろいろ問題を与える人々の階層であるが、それ以上の差別的待遇を受けそうな階層である。日本の社会のいろんな行き詰まりの主原因として、激しくバッシングされる可能性が高い。本当は、むしろその行き詰まりの症状としてみるべきだと思うが。
 
 「負け犬の遠吠え」に話を戻すが、あれは自分もそういう負け犬の一人だから許された表現だろう。あれを男性の評論家などが書いたとしたら、本当に非難ごうごうであろう。だが、自分がその定義に当てはまるから、そういう差別的表現をして許されるのか。誰がその人をそのグループの代表に選んだのか。

 同じ女性だというだけでもフェミニストから昔かたぎの保守的な女性まで多様である。それを一人自分も女性だというだけで女性全体の代表のように発言するフェミニストがおかしいように、自分もその階級に属するからと言って貧乏人はやっぱり劣っていると主張する人がおかしいように、「負け犬の遠吠え」もおかしいだろう。
 昔ユダヤ人の劣等性を証明して自殺したユダヤ人がいたという話を聞く。正確な名前が思い出せないが。自分で自分を劣等だとみなして自分を差別するのは勝手だが、自分の属する階級を差別する権利は、ない。自分が属するからと言って私が、そもそもフリーターは・・・とまとめて論断したら、多くのフリーターの人は憤るであろう。当然である。
 筒井康隆ではないが、それこそ腹立ち日記になった

文章修行 2005-01-14 08:29:32

 文章を書くのには、何よりもまず練習なのだろうが、それではどのような練習をしたらいいのか。短い文章であっても、本気で書くとなるとかなりの時間と労力を使う。といっても、もう学生ではない私としては、そのような時間を毎日作ることは出来そうもない。私の状況では、せいぜい週一回、本気で書けるかどうかだが、それでは練習量として少ない気がする。どうしたらいいのだろうか。

 今、私が考えているのは、完全に本気の文章を毎日書くのはあきらめ、少しだけ気を使った文章を毎日このブログで書くという方法だ。文章を書くときに、意識的に守るルールを決め、習慣化させるようにするのだ。主に、「論理トレーニング101題」を参考にするが、自分なりにいいと思ったこと、聞きかじったことはどんどん採用するようにする。

 とりあえず、今心がけていることを順不同で書き出してみる。

 ・横書きでも段落の最初の言葉は、一文字開ける。

 縦書きの日本語は、冒頭の一文字を開けると学校で習うが、私は、横書きの場合の正式な書き方は学校で習った記憶がない。そのせいか、ブログなどでも、多くの人が冒頭の文字を開けずに書いているが、私が読んでいる限り別に弊害はない。だから必ずしも横書きの冒頭の一文字を開けるべきだとは考えないのだが、横書きの先進国である英語などを見ると、必ず冒頭の文字は開けてある。ブログの場合は、段落ごとに一行開けている人が多いため、冒頭の一文字を開けることで段落の区切りを示す必要性がないのかもしれない。だが、それ以外にも、何か冒頭の一文字を開けるメリットがあるかもしれない。しばらくは、私は一文字を開けてブログを書いてみる。

 ・主語の「私」を適切に使うようにする。

 私は、日記の気分でブログを書いてきたので、当たり前の主語である「私」を省きがちである。実際それでも、私も読者の方も困ることはないのだが、何かを主張するような日記ではないような文章を書く場合、本来は「私」が感じたり考えたりしただけなのに、主語を省くことでそれがあたかも常識であるかのような印象操作をすることになりかねないと、私は思うようになってきた。過剰な主語は(少なくとも私には)不自然で読みづらい日本語の原因なのだが、できるだけ主語を使うように試みたい。

 ・段落の冒頭に一番重要性の高い文章を持ってくる。また、段落の最後の文章との関連を考えていく。

 段落の冒頭でその段落の一番言いたいことをのべ、次に理由や実例を挙げ、その段落の最後に、冒頭と同趣旨の文章か、次の段落につながるような文章をおくということである。私がやってみると、意外にこれが難しく全ての場合に適用することは今のところ出来ていない。また、こうすると何故いい文章につながるのか、という理由も漠然とした感じしか私の中になく、その理由を明確化していく必要も感じている。

 ・定型化、陳腐化した表現を意図的に使ったり使わなかったりする。

 「胸をなでおろした」「腰を抜かす」など、実際に胸や腰がどうこうした、というのではなく、そのシチュエーションをコンパクトに表現するための定型的な表現に対して自覚的になるべきだろう。文章をコンパクトにして、言いたいことだけを伝える場合は便利だが、きちんと状況を述べたいと思う時には使うべきではない。これはホームページ「有田芳生の今夜もほろ酔い」の2005年1月12日の日記にあったものを参考にした。

 これだけではきちんとした文章を書くにはまだまだ足りない要素が多い。しかし、今の私にはこれをきちんと守ろうとするだけでもかなりの労力になる。ある程度これらに習熟したら、また次の課題を自分に課そうと私が思っている。その時に、今の自分よりも少しでも文章力と思考力が向上していればいいと思う。

日記 2005-01-13 22:20:45

 例の中村教授の「和解」について少しブログを書きかけたのだが、時間がないのであさってくらいに完成を目指す。

 今日はいつもより長く働いたので、疲れた。知らない仕事が山ほどある。何回かやった仕事もしばらくするとあいまいになる。また、一回では到底システムの意味が理解できない。理解できても、それをとっさに応用できない。・・・つまずきの種はあらゆるところにあるのである。

 職場の、特に上司たちの期待に添えない自分が情けなく思うが、一年間はここで頑張らなくてはいけないだろう。仕事を頑張るの大事だが、心や体を壊さないようにすることも気をつけなくてはいけない。thinkはするがworryはしない、ということを心掛けよう。

 仕事のナリッヂを文章化してノートに書いていく作業は、意外に苦痛ではない。頭の整理になるし、仕事の練習という感じがしていい。ただ調子に乗って頑張りすぎると、私は息切れして続かないのでのんびり構えなくてはいけない。今日は延べで十二時間も仕事に一心に(その成果は別として主観的には)打ち込んだのだから、いい加減違うことで脳みそを使わないと人間としてだめになる。頑張って音楽を聴き、こうしてブログを書く。本当は綺麗な夜景を眺めたい気分なのだが、貧乏だから出来ない。

 monoikos氏の推薦の斉藤孝の「原稿用紙十枚書く力」を買おうかと思ったが、まずは野矢茂樹氏の「論理トレーニング101題」を納得いくまでやってみようかと思う。ただし、ここの問題を解くのではなく、この間序論をやったように、野矢氏の考えていること、言っていることを徹底的に考えてみるつもりだ。これも週末に「接続表現」をテーマにやってみるつもりだ。

 ソフィーの世界は毎日十分づつくらいの朝と夜の通勤電車の中で読むだけなので、進み方が遅い。やっとプラトンにまで来た。わざと目次を見ないようにしているのではわからないが、プラトンアリストテレスまではいいが、教父哲学とか中世の神学はあまり興味がないのでギリシャからデカルトまでどうつなぐつもりなのか気になる。

 哲学といえば、「カントの自我論」をたたき台に、哲学のブログの連載を始めたいのだ。最初にカントの自我論を読む取っ掛かりとして、「死」「身体」という主題とSF的に見える思考実験が決して無関係ではないという問題意識を提示し、そこを取っ掛かりに自我論を批判的に読んでいくつもりなのだ。途中途中で、私が感動したSFや諸星大二郎の漫画などを取り上げていくつもりである。私の哲学知識やその表現能力が、今の段階ではかなり拙劣なのは承知であるが、奇をてらうつもりは一切なく、そういう漫画やSFに、ダイレクトに哲学的な問題が露呈していると確信しているのだ。

 中島義道氏はそういった思考実験にはかなり批判的であるが、中島氏を仮想の対話の相手として、そういう思考実験の意義を認めてもらえるような、建設的な哲学の議論を構築できたらと思う。

 それとは別に、社会的な哲学の関心がわく。ウィリアム・ジェイムズの「宗教的経験の諸相」を読み始めているから。ベルグソンの傑作、「道徳と宗教の二源泉」を読み返したくなる。ベルグソンはあの本をもう少し圧縮して歯切れよくしたら、もっと評価されるようないい本だと思うのだが。いささか冗長で繰り返しが多すぎる嫌いがある。

 今日の音楽はまたしてもアラニス・モリセット(特にアイロニック。最高にいい曲だとは思わないが、今のところすごくインスパイアされる。音楽を聴いていてよかったという気分になる。それはつまり、今日数少ない、生きていて良かったという感じだ。)クランベリーズ。ちょっと気分を変えてミシェル・ブランチ大貫妙子も少々。)

日記 2005-01-12 22:54:45

 仕事で覚えるべきこを昼休みに書き始めた初日から、私の意識が変わってきた。とにかく、覚えることがたくさんある。たくさんあるだけでなく、その多くが事務的、官僚的、システマチックな仕事なのである。規則がたくさんあるが、例外もたくさんある。その上に、たまにしか使わない業務が大部分で、自分の体で覚えるという方法にも限界がある。

 書店業界で大学生のころから、それこそ4、5回は職場を変え、延べ十年近くも働いてきたが、今やっているのは書店とはいえ異なる仕事だと認識したほうがいい、と痛感した。また、今までやってきたことが結局一番下っ端の単純作業だけであった、という事実も痛感させれた。

 こういうことは最初から頭ではわかっていたのだが、「腑に落ちる」という形での体感がなかった。やはりやってみないとわからないことはあるのものだ。

 最初は膨大な量のメモをとり、家で清書する方法をとっていたのだが、量が多すぎてつかれきってしまい、いつしかやめてしまった。頑張って体で覚えるように方向転換したのだ。というのはメモを取ることに集中してしまって、かえって言われていることを理解していないことが多いと感じたからだ。今は、どちらも両極端の方法だったと思っている。要は、必要なことをメモにとり、必要なことを清書すればいいのだ。何もかもメモを取るのも、何もメモを取らないのも極端だ。

 何だ当たり前のことではないか、と自分でも嫌になるくらいだが、事実なのだから仕方がない。では何がメモを取るべき必要なことか。何を記録として残しておくべきなのか。それはなんとなくわかっているが、はっきりとはわからない。また試行錯誤してやっていくしかないだろう。

 こういった多少なりとも社員のやる仕事の根幹は人間関係も必要だろうが、私の感じているところでは「システマティック」な処理なのではないか。もっと正確に言えば、システムと、システムの外を横断する処理能力である。システムはあくまで人間が作ったもので不完全であり、システム自体の不都合、システムが予想しない現実は常に存在する。また、システム内の環境、システム事態になじむ必要もある。システムはユークリッド幾何学のように、少数の原理から多数の規則を導出していくようなものであることは、ほとんどありえない。幾つかの大きな原則があるが、それらは矛盾していることもあるし、古いシステムに新しいのを無理やり接木したり、というのがむしろ普通である。こういうおんぼろなシステム内の環境を熟知し、さらにシステム外の現実を把握し、全体としての選択をしていく。即断即決が必要とされる営業も、決まりきった処理をする経理も、この二要素の割合が異なるだけだと思う。

 これらの二要素はともに全く違う種類の能力ではない。システムを知らなければ、システムの外の現実のどこに注目するべきかがわからない。そして、システムがどういう現実に対応しようとしているのかがわからなければ、システム基本思想も、システムの不備も理解できない。

 とはいえ、システムを把握するのには、独特の能力が要ることも確かである。奇をてらった数学や、暗号のような難解な評論文、さらに暗号ゲームに等しいような文法中心の外国語学習、これらは数学や国語や英語の心ある教師からは批判されているが、それらを数学や国語や外国語そのものの学習とみなすからそういう批判になるのだと思う。つまり、これらはシステムの処理能力を、数学や日本語や英語という環境で、鍛えさせている勉強なのだ。

 いわゆる明敏な知性といわれるものとは、こういう処理能力をさす場合が多いと思う。そしてある程度、くだらない受験勉強はそういう処理能力と相関を持つだろう。もし受験秀才が仕事が出来ないとしたら、それらの処理能力を日常へと応用するプロセスに問題があるのだろう。

 もちろん、受験秀才ではない人々にも、処理能力に長けた人が大勢いる。昔幾つか工事現場を回ったが、何故だか仕事が異様に早い現場と、大勢いるのに残業ばかりの現場があるのに気がついた。技術だけではない、全体を見た処理能力が高い監督が時々いるものである。

 今まで私は、そういう能力にあまり尊敬を払わなかったのは事実だ。自分の勉強などの時間の確保などにそういう能力が必要なら、是非今の仕事をいい機会にして身につけたい。このような能力はほとんどある時期までに決まってしまうということもわかっているが、ある程度までならば努力で改善できるだろう。とにかくこの一年は、そういう努力を続けようと思う。