杉田かおる結婚 2005-01-14 23:01:59

 杉田かおるが結婚。芸能ネタ好きな私としては、見逃せないニュースである。だが私が気になって仕方がないのは「負け犬から勝ち犬へ」というマスコミの論評の仕方である。
 「負け犬」。これは差別的表現ではないのか。杉田かおる自身が自分「負け犬」と言っているとしても、マスコミまでそうやって煽ることはないと私は思う。私は自分でも良くないと思っているのだが、かなり差別的心性の持ち主であり、それを出来るだけ表に出さないように心がけている旧弊な人間である。その私でさえ、いわゆる新聞やワイドニュースで「負け犬」と堂々と表現するのは、やりすぎだと感じざるを得ない。
 私は差別的なジョークや話題が嫌いかといえば、むしろ大好きである。ブラックユーモアで有名な筒井康隆の本などは、ほとんどを中高生のうちに読破していたくらいである。筒井康隆の作品がブラックユーモアに満ちている(というかそれが主題)ことは、本の解説にも書いてあるとおりなので、嫌いな人は読まなければいい。もちろん線引きが難しいことは承知の上だが、原理原則としては受け取り手が選択できるメディアでは差別的表現も許されるべきだろう。
 (断筆宣言まで引き起こした問題はあれが国語の教科書に採用されたからであり、あれは短編として発表されてからかなりたつのに、その間はあそこまでの筒井バッシングは起きなかった。しかし仮に教科書の採用された作品だとしても、厳密には差別だとは言えない面もあると思う。配慮がない作品だとは言えるが。)
 しかし、公的なメディア、テレビ・新聞などではそういう表現は許されるべきではない。(ホームページはどうなのだとか、そういうことは今はおいておく。)「負け犬の遠吠え」という本も、気に食わないなら全く読まないですむ。だが、朝起きて出勤前にテレビを見ていたら、アナウンサーが笑顔で「ついに脱負け犬。あの杉田かおるさんが電撃結婚です!」というのは避けようがない。こういうのはやめるべきである。
 私も、当然のことだが、例え冗談でも面と向かった相手が傷つくような話題は絶対しないように心がけている。もちろん私も人間だから完璧ではないが。また、差別的なジョークを楽しむことはあっても、日常での利害に絡むことにおいては絶対に差別的な待遇をしないようにしている。これは自分のプライドにかけて心がけている。逆に言えば、そういう背景があるからこそ、言葉の上でそういうジョークを楽しむことが出来る。自分が誰かを具体的に差別している自覚があれば、そういうジョークを楽しむことは、少なくとも私には出来ない。本来は差別ジョークを楽しむこともいけないのだが。
 それにしても「負け犬」とはひどい言葉だと思う。少し前に流行った「勝ち組」「負け組」というのは主に企業の経済活動を表現したもので、企業が経済的な成功を目指しているのは当然だから差別とは言えない。だが女性は、子供を生むために存在しているのではない。子供を生むことが人生の目標でもない。もちろん、子供を持つことを生きがいにしている女性は、それはそれですばらしい生きがいである。だが、全ての女性がそういう生きがいを持つべき理由はどこにもない。それに、子供を持ちたくても体の原因で子供が持てない人のことを考えたら、絶対に使うべき言葉でない(くどいようだが公的なメディアで)言葉だ。こういうことは常識じゃないのか。
 同じく、「オニババ」という表現を使って、出産しない女性を出産するように促しているらしい本も売れているという。出産は人生において大切な経験だから、女性がいろいろな障害で出産を回避してしまっているから、そういう女性を出産するように促す本らしい。その本の趣旨自体には反対はしない。何より読んでいないので。しかし、「オニババ」とか軽々しく使っていいのか、という気がしてならない。体の原因で生めない女性(その配偶者の男性に原因があるときは男性)を考えているのか、というのがまず第一点。
 あくまで本の宣伝文句を見た限りでは、子供を出産しないことでエネルギーをもてあまし異様な存在となった女性が、昔話の世界で「オニババ」といわれたのではないか云々とある。だが、そういう昔の封建的な女性へのイメージを反復しているだけではないのか。そういう固定観念は、決して生かすべき古の知恵ではないだろう。そういうセンセーショナルなキーワードを使わずに、出産のすばらしさを説くべきではないのか。
 
 こういうことは他人事ではない。社会的に非難されうる階層、グループは無数にありうる。「差別」的表現の難しいところは、その中核にはそれなりに正しい批判が含まれているところから発生している点である。つまり、出産も毛嫌いするよりは生んだほうがいいという批判は正当でありうるだろう。だが、それが一人歩きして「バッシング」へとつながる。
 「負け犬」と同じく、私が属している「フリーター」という階層も、それ自身社会的にいろいろ問題を与える人々の階層であるが、それ以上の差別的待遇を受けそうな階層である。日本の社会のいろんな行き詰まりの主原因として、激しくバッシングされる可能性が高い。本当は、むしろその行き詰まりの症状としてみるべきだと思うが。
 
 「負け犬の遠吠え」に話を戻すが、あれは自分もそういう負け犬の一人だから許された表現だろう。あれを男性の評論家などが書いたとしたら、本当に非難ごうごうであろう。だが、自分がその定義に当てはまるから、そういう差別的表現をして許されるのか。誰がその人をそのグループの代表に選んだのか。

 同じ女性だというだけでもフェミニストから昔かたぎの保守的な女性まで多様である。それを一人自分も女性だというだけで女性全体の代表のように発言するフェミニストがおかしいように、自分もその階級に属するからと言って貧乏人はやっぱり劣っていると主張する人がおかしいように、「負け犬の遠吠え」もおかしいだろう。
 昔ユダヤ人の劣等性を証明して自殺したユダヤ人がいたという話を聞く。正確な名前が思い出せないが。自分で自分を劣等だとみなして自分を差別するのは勝手だが、自分の属する階級を差別する権利は、ない。自分が属するからと言って私が、そもそもフリーターは・・・とまとめて論断したら、多くのフリーターの人は憤るであろう。当然である。
 筒井康隆ではないが、それこそ腹立ち日記になった