内田樹氏の「自立とは何か」を読んで ver1.00 最終投稿 05.01.05 2005-01-15 14:05:23

 内田樹氏のブログの一月十四日の「自立とは何か」という文章を読み、改めて自分が内田氏の表現を借りれば、「幼児的な大人」であるとことを確信した。そして同時に、私はこのまま幼児的な大人を徹底していこうと思った。

 引用開始

しかし、「幼児的な大人」は、何が「自分に依存しているのか」をことばにしようとする習慣がない。
自分がいることで何が「担保」されているのか、自分は他の人が引き受けないどのような「リスク」を取る用意があるのか、自分は余人を以ては代え難いどのような「よきこと」をこの世界にもたらしうるのか、といった問いを自分に向ける習慣がない。

 引用終了

 人間は皆一人では生きていけない。それは誰にとっても成立する事情である。このことを私は常にまざまざと実感している。(特に永井均氏の著作に触れるようになってから、そのことをよく痛感するようになった。)人は集団で支えあわなければ、生きていけないのである。だからこそ、一人だけ抜け駆けするやつを許さない。(私の存在そのものが、他者に依拠している)

 文化も宗教も、人間は一人では生きていけない(人間を社会に関係付けさせ続けなければ社会が崩壊してしまう)という条件に規定されている。常に絶えず、その条件は、私に社会的存在であれと圧力をかける。

 「幼児的な大人」とは、そのような社会の「真・善・美」からの働きかけにうまく応答していない大人のこと指すのではないだろうか。 

 彼らは社会の恩恵にあずかりながら、そのことを自覚しないし、その恩恵を引き受けて己の役割を果たそうとしない。(内田氏のイメージしていることとは、かなりのずれがある私の再定義であるが、厳密な論争をしたいのではないのでご容赦いただきたい。)

 もう少し内田氏のブログから引用を続ける。

 引用開始

生きている限り、私たちは無数のものに依存し、同時に無数のものに依存されている。その「絡み合い」の様相を適切に意識できている人のことを私たちは「自立している人」と呼ぶのである。
だから、自立している人は周囲の人々から繰り返し助言を求められ、繰り返し決定権を委ねられ、繰り返しその支援を期待される。
「私は自立している」といくら大声で宣言してみても無意味である。
自立というのは自己評価ではなく、他者からの評価のことだからだ。
部屋代を自分で払っても、自力でご飯をつくっても、パンツを自分で洗っても、助言を求められず、決定権を委ねられず、支援を期待されていない人は、その年齢や社会的立場にかかわらず、「こども」である。

 引用終了

 社会からの恩恵を自覚するだけではだめである。大なり小なり、われわれは社会にとって何らかのリターンを与えなくてはいけないとされている。時給千円に満たないアルバイトであっても、それを突然やめたら誰かが困るというレベルから、親不孝な子供でも死んではいけない、というレベル、どうしようもない犯罪者だが、何故だか女性の心をひきつけるというレベルまで、ありとあらゆる関り合いの様相の中で、人は位置づけられざるをえない。

 社会は自立している人を求めるが、だからといって「自分で自分の生活を維持している人」を求めているのではない。それを踏まえてさらに、さまざまなレベルにおいて誰かの「呼びかけ」に応答し、何がしかのものを引き受けてもらうところまでいって欲しいのである。

 都会に住んでいると、仕事以外にはごくわずかな人間関係しか持たず、その仕事も誰かと交換可能性が極めて高い孤独な生活者がたくさんいる。そういう人々経済的には自立しているが、この文脈では内田氏的にはただ孤立しているだけである。呼びかけられることがない。故に「自立した大人」じゃないのだ。

 内田氏の主張は、その表現が内田氏の独特なだけであって、その根本は道徳の根本原理である。

 内田氏の議論には、まずこう言いたい。私は経済的には自立したいが、内田氏のような意味での「自立」をアプリオリに望ましいものとは感じない。内田氏の議論は、「何故自立するべきか」という問いを飛躍した上に成立している。その辺が私に違和感を与える。

 私は子供のころから漠然と、そして哲学に関心を持ってからますます、この「自分に出来るよきこと」という発想を避けるべく自分を訓練してきた。それは根本的に偶然的なことごとであり、それを引き受けて自らに必然的なものにするかどうかを、少しでも自分の側で選択したいと感じるからである。

 人間の可能性の空間というものを考えたとき、今の社会に認められうる可能性の空間は、そのうちのごく一部しか占めていないであろう。江戸時代の子供の中には、無数の数学の才能を秘めた人々がいたであろう。しかし、高等数学がほとんどの子供にいきわたらない状況では、そのような子供の才能はむなしく朽ち果てたに違いない。ウィトゲンシュタインは哲学の天才的な才能を持っていたが、フレーゲラッセルの記号論理学という「取っ掛かり」がなかったら、既存の哲学にはあまり関心がなかった彼は、哲学の世界に入っていけなかったに違いない。アインシュタインは後半生を重力と電磁気力の統一を目指したが、当時の限られた科学の知見では成功させるのは難しかっただろう。彼が今、あるいは百年後に生まれていれば、彼の才能をもっともっと生かせたかもしれない。北朝鮮ではどうしようなく落伍者となるような男も、日本では漫才師として成功できるかもしれない。本来はやさしい穏やかな人間になる可能性を秘めた人間が、厳粛な家庭に生まれてしまって萎縮した惨めな人格を持って生涯を終えないといけないかもしれない。

 ぐだぐだと書いてきたが、いいたいことは、単純である。「自分」は社会に徹底的に規制・規定されているのだが、それは常に「偶然」の要素を持つ。そしてそれら全てに「付き合う」必要を私は感じない。何がしかのその社会における損失を被ったとしても、「応答しない」という選択肢もわれわれには与えられている。これが言いたいのだ。

 群れを率いて動物を年中追いかけているレベルの社会では、社会の縛りは非常に強いがこれだけ豊かに膨れ上がった社会になると、社会に寄生して生きていく可能性がかなり出てくる。そういう緩んだ社会だから、大人になっても自分が引き受けるべき(とされる)人間の呼びかけに答えない内田氏いわく「幼児的な大人」「自立していない人」が大量発生しうるのだ。内田氏の依拠する価値観は、「それは本当の自立ではない。」「自分らしく生きているようでそうではない」と、価値を我々から簒奪する。

 内田氏が意図的にか無自覚にか、触れていない前提がある。それは無数の他者からの評価、呼びかけを適切に自覚できれば、必ず人はそれに応答するはずだ、という前提である。いかに精密に感情の機微を把握し、理論的な社会への認識が出来ていても、それに「応答」しなければ、その認識を「きちんとした」認識とは内田氏の中では呼ばないのだろう。「それは理論理性で単に相手の状況を推論したに過ぎない。目の前で苦しむ人間のメッセージを受け取るということは、それに答えると言うことである。」という仮想の答えが浮かぶ。

 私は、呼びかけを自覚はしても、必ず応答することはしない。しないように心がける。偶然でしかない社会からの呼びかけに応答している時間が私にはない。私の立場は、「自立」という問題系自体に本質的に関わらない、というものだ。

 内田氏の言うところは、結局は高等な嘘であると思う。「何故人は自立するべきか」「社会に依存しているからと言って、それをそのまま享受するだけにとどまってはいけないのか」という疑問を初めから除外してしまっている。

 また、こういう私の議論を批判する人は必ずいるが、その人もある前提に基づいている場合がある。思想や意見を発表することは、社会への貢献や、自分の望む社会への影響を目指している、というものだ。当然私は社会が崩壊すればいいなどと願っていない。皆様にはできるかぎり社会に貢献しあい、依存しあっていただいて、大いに守り立てていただきたい。私はその社会に寄生して、どうにか自分のやりたいことをやるだけだ。そして似たようなことを考えている人がいれば、私に賛成するだろう、それだけのことなのである。

 そうではない、「自分だけ」で可能性を拓くことなど出来ない、常に「他者」に自らを開くことこそ、「自分」を開いていくことなのだ、云々という高級な反論もよく耳にする。私も他者の存在を大いに活用していくつもりだ。とにかく、「それは本当の自分ではない。」とか「本当の可能性を拓いているのではない。」云々というのは、極めて高級な社会の構成原理である「嘘」である。

 私が永井均氏の著作を読んでやっぱりいいと思うのは、氏の哲学がそういう種類の「嘘」をあまり含んでいないという点である。氏の哲学が丸ごと偽であるということはかなりありそうなことである。実際その可能性が高いと常々思っている。

 だが、彼は善なる嘘はほとんど語っていない。語っている場合もあるが、それは社会的に語ることが必然的に「嘘」になってしまうという構造的な場合によることが多い。

 私はたまたまフリーターで社会的責任を全うしているとはいえないが、私がどれほど社会的能力があろうと、私のような信念を持って、社会的な呼びかけを意識的に取捨選択して、他者の方から自分を規定しないように心がけている人はいるはずである。

 内田氏の言辞は「カッコーの巣の上で」のラチェット婦長の言葉と似ている。社会にうまくとりこもうとして患者たちを「自立」へと向かわせているのだ。

 永井氏の場合は読者のどれだけがそう受け取っているのかはわからないが、本当に残酷で無責任である。内田氏のように、彼は社会的な脈絡で応答していないから、哲学をするから就職しませんという青年に、「君が自分のやりたいことをやりたくてそうするなら結構。しかし、それでは人生において一生楽しい思いは出来ないし、自分に対して自分を尊敬する気持ちももてなくなると思うよ」といったアドバイスはしない。(そして私は、この内田氏のアドバイスは正しいと思う。私がこうした正しさが成立する次元でだけ終始したくない、というだけである。)

 永井氏は自分に対する敬意を抱くべきなどと「いわない」。そう読んでいる人がいれば、誤読である。そもそも読んだ人が、「じゃあどうすれば」という次元で話していない。だから彼の意見はそもそも公共の場で発表するべき意見ではない。まともな人ならば、相手にしないのが一番である。

 だからこそ、哲学は面白いという愚者は確実に(少なくともここに一人いる)。愚者であり、社会的弱者であり、貧者であるが、患者ではない。

 しかし内田氏の側ははるかに優勢である。彼は、真であり、善であるから。

 私は、そもそも社会からの「呼びかけ」とか、「自立」という問題系自体を無視する。それは作られた問題系である。何のためにか?それは何回も述べたように社会の巧妙な仕組みなのである。無視するというと問題がある。実は知っているのだが、それを知らないと言うことにする「否認」が適切な言葉かもしれない。

 ややこしい言い方だが、かつてマルクス主義は、明らかに時代にそぐわなくなっていても、力強いイデオロギーで「乗り越え不可能」と呼ばれた時期があった。それは、マルクス主義が時代遅れではあっても、経済・社会・人文科学系のパースペクティブを統一的に与える世界観だったからである。

 そのような明らかにそれは正しくないのだが、それと同じ土俵に乗っかる対抗概念が見つからない場合、それを「否認」するという方策がある。

 私は、あくまで非合理的な衝動にのみ耳を傾ける。

 私は、マックみたいにラチェット婦長に殺されないよう、力を蓄え、機会をうかがわなければいけない。カフカではないが、掟の門は常に「私のために」開かれているのだ。