日記 2005-01-12 22:54:45

 仕事で覚えるべきこを昼休みに書き始めた初日から、私の意識が変わってきた。とにかく、覚えることがたくさんある。たくさんあるだけでなく、その多くが事務的、官僚的、システマチックな仕事なのである。規則がたくさんあるが、例外もたくさんある。その上に、たまにしか使わない業務が大部分で、自分の体で覚えるという方法にも限界がある。

 書店業界で大学生のころから、それこそ4、5回は職場を変え、延べ十年近くも働いてきたが、今やっているのは書店とはいえ異なる仕事だと認識したほうがいい、と痛感した。また、今までやってきたことが結局一番下っ端の単純作業だけであった、という事実も痛感させれた。

 こういうことは最初から頭ではわかっていたのだが、「腑に落ちる」という形での体感がなかった。やはりやってみないとわからないことはあるのものだ。

 最初は膨大な量のメモをとり、家で清書する方法をとっていたのだが、量が多すぎてつかれきってしまい、いつしかやめてしまった。頑張って体で覚えるように方向転換したのだ。というのはメモを取ることに集中してしまって、かえって言われていることを理解していないことが多いと感じたからだ。今は、どちらも両極端の方法だったと思っている。要は、必要なことをメモにとり、必要なことを清書すればいいのだ。何もかもメモを取るのも、何もメモを取らないのも極端だ。

 何だ当たり前のことではないか、と自分でも嫌になるくらいだが、事実なのだから仕方がない。では何がメモを取るべき必要なことか。何を記録として残しておくべきなのか。それはなんとなくわかっているが、はっきりとはわからない。また試行錯誤してやっていくしかないだろう。

 こういった多少なりとも社員のやる仕事の根幹は人間関係も必要だろうが、私の感じているところでは「システマティック」な処理なのではないか。もっと正確に言えば、システムと、システムの外を横断する処理能力である。システムはあくまで人間が作ったもので不完全であり、システム自体の不都合、システムが予想しない現実は常に存在する。また、システム内の環境、システム事態になじむ必要もある。システムはユークリッド幾何学のように、少数の原理から多数の規則を導出していくようなものであることは、ほとんどありえない。幾つかの大きな原則があるが、それらは矛盾していることもあるし、古いシステムに新しいのを無理やり接木したり、というのがむしろ普通である。こういうおんぼろなシステム内の環境を熟知し、さらにシステム外の現実を把握し、全体としての選択をしていく。即断即決が必要とされる営業も、決まりきった処理をする経理も、この二要素の割合が異なるだけだと思う。

 これらの二要素はともに全く違う種類の能力ではない。システムを知らなければ、システムの外の現実のどこに注目するべきかがわからない。そして、システムがどういう現実に対応しようとしているのかがわからなければ、システム基本思想も、システムの不備も理解できない。

 とはいえ、システムを把握するのには、独特の能力が要ることも確かである。奇をてらった数学や、暗号のような難解な評論文、さらに暗号ゲームに等しいような文法中心の外国語学習、これらは数学や国語や英語の心ある教師からは批判されているが、それらを数学や国語や外国語そのものの学習とみなすからそういう批判になるのだと思う。つまり、これらはシステムの処理能力を、数学や日本語や英語という環境で、鍛えさせている勉強なのだ。

 いわゆる明敏な知性といわれるものとは、こういう処理能力をさす場合が多いと思う。そしてある程度、くだらない受験勉強はそういう処理能力と相関を持つだろう。もし受験秀才が仕事が出来ないとしたら、それらの処理能力を日常へと応用するプロセスに問題があるのだろう。

 もちろん、受験秀才ではない人々にも、処理能力に長けた人が大勢いる。昔幾つか工事現場を回ったが、何故だか仕事が異様に早い現場と、大勢いるのに残業ばかりの現場があるのに気がついた。技術だけではない、全体を見た処理能力が高い監督が時々いるものである。

 今まで私は、そういう能力にあまり尊敬を払わなかったのは事実だ。自分の勉強などの時間の確保などにそういう能力が必要なら、是非今の仕事をいい機会にして身につけたい。このような能力はほとんどある時期までに決まってしまうということもわかっているが、ある程度までならば努力で改善できるだろう。とにかくこの一年は、そういう努力を続けようと思う。