「『私』とは何か」をどう問うか。 2005-01-16 16:48:16

 さしあたっての主題は、もちろん「私」とは何かという問いである。
 この問いは、我々にとって未知である概念Xを求めている問いではない。何故なら、このような問いを発するものは、既に「私」という概念を日常的に使いこなしているからである。つまり、我々は既に「私」がいかなるものか、厳密に言語化できなくても、何がしかの「了解」を持っているのである。故に、この日常的に「了解」している「私」にたどり着かない自我論は、もはや「『私』とは何か」という問いを問うているのではないことになる。

 まとめて言い直すと、こうなる。
 我々は、「私」が何であるか既に「了解」している。その「了解」に戻ってこない自我論は、もはや自我論ではない。

 この前提が、中島氏の議論の基本方針である。これを(賛成するか反対するかは別として)理解しなければ、中島氏の議論は恣意的に見え、理解しにくいものになる。何故なら、中島氏は論理的には様々な議論の可能性か゛あるところで、多くの可能性を議論せずに遮断しているからである。だが、それらの可能性は、日常における「私」の了解から離れたものなので、自我論として中島氏は扱わないのである。つまり、どれほど抽象的で難解に見える議論も、中島氏の議論である限りは、必ず日常における「私」にたどり着くための議論なのである。

 無論、日常的な「私」の「了解」か゜間違いを含んでいたり、不完全である可能性はある。だが、それを指摘するためにも、日常的に了解されている「私」にたどり着く必要があるだろう。よって、私には、中島氏のこの基本方針は正しいと思われる。ごく当然な主張である。

 では何故このような当たり前のことを、中島氏はわざわざ主張し確認するのか。それは、多くの哲学者が「私」を求めて議論を始めたはずなのに、「私」とはかけ離れた抽象的な概念を構成して、それを答えとしているからである。

 そして実はカントこそ、教科書的な哲学の解説では、抽象・難解派の最たるものとして紹介されるのがむしろ普通だという事情がある。だから中島氏がこの基本方針を掲げるのは、自我論としての意味だけではなく、通俗的カント像の破壊という意図もある。

 以上の議論をよく補強する部分を引用しよう。特に断らない限り、引用は全て「カントの自我論」からである。

(引用開始)

 「私とは何か」と私が問うとき、私はすでに「私とは何か」を知っており、そのあり方を問うているのだ。

(引用終了)3P