「私」と「他者」との同型性 2005-01-16 22:06:05

 私の試みは、中島氏の文章を逐一読解することではなく、自分なりに中島氏の議論を理解することであるから、必ずしも序論に記されているとおりに議論を進めない。必要と思われる程度に、中島氏の論の進め方と私の再構成の方法の違いについて言及する。

 さて、前回我々は、日常的に「了解」している「私」にたどり着かなければ、それはもはや自我論とは言えない、という前提を確認した。この前提からは、いくつも引き出せる命題があるが、私は「私」と他者の同型性について述べる。

 「私」を論じる際に当然浮かぶ問いとして、次のようなものがあるだろう。

(引用開始)

 さらに、「私」という言葉を自らに適切に使用するもの、「私は〜」と適切に語りだすものは膨大な数存在するのに、それらが皆同一の思惟方式によって同一の推論を経て、同一の結論に至る同一のコギトに帰着するのは何によって保証するのか。

(引用終了)5p

 コギトや思惟方式という用語に惑わされなければ、ここで主張されていることは明快である。ある自我論が、中島義道であるところの「私」に妥当するからといって、例えばこのブログの作者である「ろば」の「私」にも妥当する理由は何だというのか、ということである。
 また別の言い方で言い換えてみる。
 ある人の「私」には、他の人と全く違う構造が含まれているかもしれないし、何種類かの「私」があるかもしれない。それを考慮しないで、「私」を語ることの根拠は何か、ということなのである。
 「私」を「心」に置き換えてみると、この議論の意味がはっきりするかもしれない。中島義道が「中島義道の心」について述べたことが、他の人の「心」に妥当するべき理由は何か。中島義道やカントやろばの心に当てはまるからと言って、他の人の心に当てはまるという理由にはならない。もしカントの心に当てはまることが、他の人の心に当てはまると主張するならば、何がしかの根拠を示す必要があるだろう。

 あるAに妥当することが、他者に共通して成立することを、「同型性」と呼ぼう。(中島氏が序論で使っている同型性は、通常の同型性よりもはるかに多くの意味を担っている。その詳細を理解するには本論に入ってからでなくては出来ない。)ここではごく普通の意味の同型性しか使っていない。

 私の「私」と他者の「私」が同型性を持つという要請は何に根拠を持つのか。それは、日常における「私」のあり方に根拠を持つ。哲学的な懐疑でもしない限り、「私」の同型性は日常において前提とされている。故に、自我論もまた、同型性を期待したものとして成立しなくてはならない。「実は」同型性は崩れている、という議論をするためにも、一旦は同型性を前提としている自我論を明確にしなければならないであろう。(このような主張を中島氏は一切行っていない。私が付け加えた論理である。)
 
 議論を整理しよう。「私」の同型性が要求されるのは何故か。それは日常での「私」概念には、「私」という言葉を適切に使うものは、いずれも同じ資格で「私」であり、同一の推論によって、同一の自我論に到達するはずである、という了解があるからである。その日常における了解が本当に正しいのかは、この時点ではわからない。だが、仮にこの了解が間違っているとしても、一旦は日常における「私」概念をの了解を明瞭化し、自我論として構成した上で、「私」の同型性が実際には誤っている認識だと議論するべきであろう。

 今回の文章は、前回にも増して、私独自の前提を加えて議論を構成している。中島氏の「カントの自我論」序論を読まれた方なら、ほとんど関係ないとさえ評価するだろう。本来であれば、もっと中島氏の議論に沿った形で再構成すべきであるが、読めば読むほど、「序論」が実はかなり難解な箇所である。「カントの自我論」のエッセンスが縮約されていて、単純に読み解くことが難しい