12/28 ヤプー史観 2004-12-28 08:42:53

沼正三の「家畜人ヤプー」は日本史に(日本文学史ではなく)に残すべき傑作だと思う。いろいろな読み方があるが、今日はその歴史観について述べてみたい。

ヤプー史観とは、日本人は高度な知性を持つ猿(エイプ)である、という前提に基づく。その知性は時に人間と比べても優秀なレベルに達するが、だからと言って日本人が人間であるということにはならない。知性があるから人間性を持つということにはならない。

コンピューターは人間より高い計算能力を持つが、コンピューターを尊敬するものはいない。多くの動物は人間より早く走り、強い力を持ち、鋭い五感を持つが、だからと言って彼らが人間よりえらいというわけではない。

持っている能力と人間性(humanity)はまったく別のものなのである。

日本人は高い知能と勤勉さを持つ種であるが、自分自身で文化を生み出すことは出来ない。創造性(creativity)が欠けている。アドルフ・ヒットラーは文化を生み出す能力を持った民族と文化を支持できるが創造は出来ない民族を分けている。ちなみにユダヤ人は彼の言うところでは文化を破壊する寄生的民族である。

ヒトラーユダヤ人については間違っていたが、日本人については正しかった。

以上の前提を認めると、日露戦争はイギリスが日本を番犬代わりにロシアにけしかけた結果起きた戦争である。こっけいにも日本人は自分が番犬であると気づいてもいない。

日本人はその卑しい本性を発揮し、自分が白人並みであると錯覚をし始め第二次世界大戦へと向かっていく。日本人は優秀な種だが、先に述べたように人間の持つ高度な創造性を持たない。白人にかなうわけがない。

東京裁判大義名分は「人道に対する罪」であったが、その内実はエイプが白人に楯突いた罪と言い直すことが出来る。戦勝国が一方的に裁判をして裁くなどということは人間同士では到底許されないが、相手がモンキーであるならばそれは当然のことであり、むしろ猿のために罰を与えてやる必要がある。

当時は日本人が人間ではなくエイプであるということはまだはっきりわかっていなかったが、明らかに直感的に日本人が劣った種であることが白人にはわかっていたので、原爆を落とすことが出来たのだ。

以下この稿続く