12/27 スポック主義、あるいはスポッキズムを超えて 2004-12-27 16:16:29


当たり前のことだが、仮に魂なるものを認めたとして、死の恐怖が和らぐわけではない。必ずこの身体は滅びるとわかっているからだ。SFとかで記憶や思考能力だけを移植するという設定が出てくるが。別に特別に哲学的なことに関心がある人ではなくても、こういう設定を真剣に考えるといろいろ疑問がわいてくると思う。

自分として活動し続ける身体は、そのつど一つである。だからなんとなく、あの体に宿っていた心を、この新しい体に移植した、ということが受け入れられるのである。しかし、記憶や思考能力がそれ自体移植できるものとして取り出せるのであれば、それを複製することも出来るだろう。自分の記憶をすべて複製して、自分の肉体を複製した身体に移植すれば、私を構成している諸要素がほとんど同じ人間が出来る。だがそういう人間が生まれたところで、依然として私は私であり、支店の移動はないだろうし、あの私そっくりな人間を自分と錯覚することもありえない。

そう考えると、心を移植できるということと、私が存続し続けることは違うことなのではないか、という気がしてくる。(やっと話がカントらしくなってきた、かも知れない)

心を移植したと最初に想定した場合と、オリジナルそっくりのコピー人間を作ったと考えてみて場合とでは、違いはオリジナルが残っているかどうかの違いでしかない。オリジナルが残っていると、合成された人間はあくまで複製の地位にとどまるが、オリジナルが複製のときは帰されるとしたら、複製がオリジナルの位置を継ぐことになる。

私は私の身体を介してパースペクティブを開いており、それは時空間内にある一つの位置を占めるという事実がある。コピーとオリジナルが並存している状況ではその事実の直感に反するので、どれかが自分であり続けると認めることが出来る。

しかし、コピーの際にオリジナルが破棄されて、視点が数的な一つでありつづけると、比較的われわれの直感に抵触しないので、あたかも私であることが移植されたかのような錯覚に陥る。

スタートレックのスポック博士は以上の観点から、電子移送装置を使うことを拒否している。それは人間のパターンを電子レベルにまで分解して、遠くに離れた装置に送信し、物質的に再生するというものである。しかしスポック博士はそこで再生されるのは自分そっくりの他人であるとしてその装置を使わないのである。

さすが論理を重んじるバルカン星人の血を引くスポック博士らしい沈着な判断だと思う。
私もスポック博士の見解が正しいと思っていた。

しかし今では、電子移送装置を利用する人たちが論理的に誤っているとはいえないかも知れないという気がしてきている。複製のときにオリジナルが破棄される以上、ある独特の個性を持って世界を開いている視点は数的な一性を保っている。平たく言い直せば、一つであり続けている。ただしそれが連続しているかというのは自明ではない。普通に考えれば、複製されたときに一度断絶していると考えるの正しいだろう。

にもかかわらず、複製された側に立って考えてみると、自分が装置によって伝送されたとしか思えない。そこに断絶を見出せない。気がつけば、違う装置の中におり、身体も記憶にもまったく変化を感じることが出来ない。パースペクティブを開いている自分の時空間の位置が変化しているくらいである。そしてその時空間の位置さえ変わらなければ他人に教えられなければ、自分に何らかの操作が施されたということも認識できないのである。

いずれにせよ、われわれの直感は、依然として私は私であり続けているという風に感じる。

仮にオリジナルが残っており、自分がコピーだとしたらどうだろうか。
私はオリジナルのもっている記憶をすべて持っており、その記憶に伴っている身体と変わらない身体を持ってパースペクティブを開き続けている。

自分にとって、オリジナルが開いてきたパースペクティブの記憶はすべて自分の記憶である。オリジナルの記憶や時空間に占めてきた位置も、すべて自分のものだと端的に直観せざるを得ない。

こういうと語弊があるが、複製後のオリジナルとコピーは記憶や自分であることの諸系列を共有しているといわざるを得ない。

結論として言えば、「心」を複製したりすることは出来るが、それは「私であること」を複製したりすることではないのである。そしてわれわれは常にこの意味での「私」を考えていない。ほとんど「心」と「私であること」を同一の意味で考えている。それは日常の意味では重なり合っていて特に不都合がないのだが、今のSFの設定のような極限状況になると混乱を引き起こすのである。

話が長くなったが、以上のような大雑把に見たようなSFの話は、ああ面白いね、という軽い問題ではすまない。何故なら、そのまま死や死後の世界の議論に応用できるからである。

死という瞬間をはさんで、オリジナルの身体と心は滅びるが、死後の世界で新しく同一の心を持った存在が生まれたと理解してみると、それは「自分」じゃない、というスポック的見解が可能になる。

仮に同一の心が身体を抜け出て違う世界の行くのだと理解したとしても、われわれは結局身体を介さずにパースペクティブを開くということがどういうことは理解できない。たいていの宗教は、その世界での身体を想定せざるをえない。であれば、それは同一内容の、別人が生まれただけではないか、というスポック的批判がやはり当てはまるのである。

しかし、一定の説得力も宗教側も持ち続ける。それはその世界の魂と身体の立場になってみれば、自分が現世でどんな人生を生きて死を経験して、今まったく異なる方法でパースペクティブを開いている、という個人史を持った「私」であるからだ。

その死後の「私」にとっては、現世で生きてきた自分自身は、「私」であらざるをえない。

仮に今死にかけた身体が蘇生してたとすると、そのままオリジナルが残った人間複製装置と似た状況になる。二人の「私」が同一のパースペクティブの系列をを共有しそれがある時点で分岐したと考えざるを得ない。

「私」というものが、時空間を貫いて連続しているのではない、ということを忘れてはならない。
われわれはそのつどパースペクティブを開いている今、端的に自分がどうしてきたかという直観を持って過去のパースペクティブの系列にアクセスできる。そしてそれを「私」という形式で捉える。

しかし実際に客観的に見れば、そこにはある心がパースペクティブを開き続けてきたという事実しかないのである。それゆえに、それが複製したり分岐したりということを想定できるのである。

「死」は、「私」の死でもあるが、「私の身体」「私の心」の死でもある。事態はいまだあいまいだが、ここをもっと詰める必要があると思う。「カントの自我論」を僕はそういう観点から徹底して読み込んでみたい。




スポック主義というものを考えることが出来るだろう。スポック博士は、身体的が時空間的に連続性がない転送装置で遠くに送られた自分の複製を自分と認めない。スポック主義はこのように、身体の連続性を未来の私の存続に必要な条件とみなす。

昨日書いたように、スポック主義を死に適用すれば、死後の世界があろうとも、死後も魂なるものが存続し続けるとしても、それは「私ではない」ということになる。

スポック主義にもある真理性があるように思われるが、身体というものの連続性をどの水準で認定するかによってスポック主義はバリエーションがありうると思う。

私が今考えているのは、身体の同一性を他人や物理学的な観点で同定するというものと、主観的に、この身体を自分自身の実感として認定するというもの。

両者はたいてい一致するがしないことも日常のレベルで大いにありうる。夢を見ていたのか現実かわからないとき、われわれはあの時あそこにいた、という実感よりも、いやお前はあの時寝ていたという他人や客観的な証拠を重視するだろう。

しかしそれが夢どころでなく、人生の半分以上にもわたるようなリアリティを持つ経験の記憶になると、他人が全部僕をだましているのではないか、と実感のほうが優位になったりする。

それはそれで今は追求しないでおく。要するにスポック主義も多様でありうる。

ということはスポック主義が死に対してとりうる態度のいくつかありうるということだろう。もしフィジカルなスポッキストならば、死はそのまま自分の消滅を意味するだろう。いわゆる一般的な唯物論的見解が、フィジカルなスポッキズムと同内容になる。唯物論は身体のようなフィジカルなものしか認めないから当然であるが。

問題は身体へ自分自身の実感を重視する、主観的スポッキズムである。自分が今までずっと日本で暮らしてきたのに、実はお前はアメリカで生きてきたんだ。その間頭が狂っていたのだと言われたとき、普通はわれわれはいかにもっともらしい証拠が突きつけられても、自分の身体がアメリカで暮らしていたと認めないだろう。つまりアメリカで生きてきたことを認めないだろう。

仮にアメリカで暮らしていた身体の存在を認めたとしても自分にはその記憶がない、つまりその身体が自分の身体であるという端的な直観を伴っていない以上、それは自分の身体ではない、と主張したい強い傾向性が生じる。

逆に言えば、いかに物理学的、他人の証言などで位置づけられなくても、私が過去においてどう過ごしたのかという、自分の身体の経歴に関する主観的な直観がともないさえすれば、われわれはどうも誰も認めてくれないが、私はあの時確かにあそこにいたのだ、と主張せざるをえない。

このような自分の実感を重視する立場は、フィジカルなスポッキズムに対してサブジェクティブなスポッキズムと呼ぶことが出来る。サブジェクティブなスポッキズムは厳密化されればスポッキズムであることが出来なくなる。何故ならば、この立場を厳密化すると、われわれの自己同一性を保障するのは、記憶の同一性であるという立場になりうるからである。

さてサブジェクテイブなスポッキズムは、記憶の同一性ではなく、ある身体への自分の実感を重視する立場であった。その立場から死はどのように捉えられるか。答えは錯綜して微妙なものになりうる。

一番オーソドックスと思われる回答を考えてみよう。自分の身体への端的な直観が伴う記憶の系列を次のように表そう。S(m1、m2・・・・)。この下手な記号化はSという人が、自分の身体が体験したという直観を伴う記憶をm1、m2・・・いう系列として持っているということを意味している。

では、その人が転送装置で複製されたあとをどのように表現するか。S’((m1、m2・・・)mx+1、mx+2・・・)となる。S’はまるまるSの身体を端的な直観つまり想起によってアクセスすることが出来る。

S’にとっては、Sの全経歴を直接アクセス(想起によって)出来るのだから、それを自分とみなさざるをえないだろう。

しかし、未来のS’が、自分の身体的経歴に直接アクセスできるだろうことを認めても、それが未来の自分と認めるかどうかは困難である。S’は、あくまで自分の記憶に直接アクセスできるだろう他人ではないか、という問題があるからである。

ここで大きな結論を出すことは出来ないが、サブジェクティブなスポッキズムの陥る困難は、死後の生についても当てはまるだろう。サブジェクティブなスポッキストにとって死はは「死後も僕という個性は存続するだろう。しかしそれは僕なんだろうか」というのが精一杯な回答だろう。

ここでとりあえず言えることは、われわれが自分の経歴と存続を考えるとき、過去の自分を考えるときと未来の自分を考えるときは、非対称性が生じるということである。

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以上のような考察を踏まえると(あるいは踏まえずとも)過去と未来の自分の存続という非対称性を考えると、そこには身体に対する端的な直観の有無が重要なのではないか、という気がしてくる。過去の自分の身体は、仮にそれがオブジェクティブには存在しないとしても、オブジェクティブに端的に直観されるならば、それは何がしかの留保つきであれわれわれに存在している。哲学風の懐疑で丸ごと過去を否定してみてもいいがそのときは「存在する」という言葉の意味が宙に浮いてしまうだろう。

もちろん未来に関してはわれわれは端的に自分の身体を直観することは出来ない。出来るのは予想とか予期とかである。それはいかなる意味でも、対象性を欠いている。想起は二重の対象性を持つ。つまりそのときそういう体験をしたという記憶自体と、過去の事態そのもの。いずれにそれは内容の認識に誤りがあろうとも、それらがすべて存在しないことはありえない。出なければ存在という言葉が意味を失う。

しかし未来に関しては、われわれは身体を介して未来を開けない。言ってみれば未来という時間の様相は現在と過去とはまったく異なっている。

中島氏は以上の議論をもっと精緻に行って未来の存在を否定する。しかしつまるところ、われわれが未来に端的な直観を持たないのであるからそれは存在しないという構図は単純である。

ハイデガーはもっと未来を重視する。というより未来が時間様相の中で一番根本的なのだ。
それはそれで説得力のある議論である。