読みたい本が増える。と(今日は珍しく、2008年現在の日記)


また酔っ払ってきたので、さっさと日記を書いて寝よう。

先日「フロー体験 喜びの現象学」という本を買った。

買ったはいいが忙しくて拾い読み程度しかできていないが、なかなかよい本で高い金を払う価値があった。

しかし、このフロー体験、コリン・ウィルソン至高体験、新実存主義と同じじゃないの?と思って調べてみたら、こんなブログが見つかった。

http://cds190.exblog.jp/1711303

要するに至高体験については、マズローコリン・ウィルソンが往復書簡を交わして議論していること、至高体験とフロー体験は異なるが、関連したトピックらしいことがわかる。

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全然話が飛ぶけど、西田の善の研究も、フローとか至高体験と、通常の日常体験をうまく区別せずにあいまいに議論している面があるように思える。

けれども、場所の論理にまで至れば、フローも至高体験も通常の日常体験も(主客未分という点で)まとめて扱える。遡及して善の研究でもそう読める気がするが、西田の文章を読むとあたかも純粋経験という何がすごい体験があるかのように錯覚しやすい。というか西田自身がそのように自分の議論を錯覚して、真正の自我と偽りの自我みたいな心理学的な議論に頽落しているのではないか。

場所の論理というのは、論理学(というか集合論)の体裁を借りている(当時の)論理学と、存在論がびっちり一致してしまっているところに違和感がある(木田元的なデアルとガアルの混同)が、非常に平たく言えば、スペシフィック、もしくはローカルな文章はコンテクストの中で始めて意味を持つ=存在者たりえる・・・というきわめて常識的なことを言っているに過ぎないように思えるが、どうなんだろうか。

(意味を持つことと存在者たることが同じかどうか、そこも問題である。通常は同じではない、と考えられるだろう)(ちなみに場所は存在者ではないから無である、という議論は、存在は存在者ではないから存在しない、という議論とまったく同型である。)

(また、人工知能におけるフレーム問題とも極めて近接した議論でもある)


ただ、そうすると場所の場所、コンテクストのコンテクスト、と議論は無限に続いてしまう。アリストテレスのように始動因を考えざるを得なくなるのではないか。(相対無と絶対無という議論はそうとしか読めない)

そうすると、そういう議論全体が、本来比ゆのはずの場所やコンテクストという言葉の「文法」にのみ依拠しており、虚偽である、という批判も成り立つ。実際、中島義道の西田批判は私の勘違いでなければそういうものであると思う。

そういう議論はおいておいて・・・西田の、いわゆる絶対矛盾の自己同一というのは、いわば「解釈学的」という意味で、スペシフィックな文章の意味を読むにはコンテクストが必要だが、スペシフィックな文章を読むことでコンテクスト全体もまた変化する、ということではないんだろうか。(ドレイファスが、存在と時間ホーリズムを読み込むのは極めて正当)

西田の、例えば、”空間即時間、時間即空間”などという奇天烈な文言も、そのように空間というコンテクスト無しでの時間は無意味であるし、その逆も成立する、と解すればいいのではないだろうか。

日常の言語行為においては、コンテクスト全体を変化させるような影響はさほどないにしても、時として「読みの急所」のような文言が確かにある。そこをどう読み込むかによって、コンテクストは決定的に相貌を変えてしまうのだ。(野矢茂樹 論理哲学論考を読む を参照)(ちなみに野矢先生は、今日私が書いているような見解をまったく書いていないので注意:苦笑)

そのような読み=行為は、既存のコンテクストそれ自体から導けず、そこに選択というか決断の入り込む余地がある。(言うまでも無く、それは無から有を創造したような神のクリエイションの模倣的反復=縮小再生産という含意がある)(決断自体、大いなる場所の場所である「底」というか、何か芸術や数学の神様の意図を、人間がペンとなって現実化させると理解することも出来る。)(そのような大いなる何かを持つ人間と、持たない((作中では本能と呼ばれる))人造人間の相克を描いた作品が諸星大二郎にある。)(類と個を媒介する種という話ではまったく無いことに注意)

そう決断されたコンテクスト全体の変更は、それ以降のテクストの蓄積がその決断に依拠するが故に、逆に「見えなくなる」。それが当たり前すぎて、それ以外の可能性があり得ないようにテクストが蓄積されていく(ウィトゲンシュタインの確実性の問題や、永井均ニーチェ解釈による”高貴な人”、鬼界=ウィトゲンシュタインの”事実アプリオリ” 具体的なイメージとしては、グレッグ・イーガンの著作、たとえば”ルミナス”、クヌース”至福の超現実数”参照)(全体としては、永井均の”解釈学、系譜学、考古学”という大学入試にも使われた文章に極めてコンパクトにまとめられている)

そうした決断(という言葉を使っている時点で議論をコッチに誘導しているのがバレバレだが:苦笑)を下すのは、一時期のハイデガーは、詩人、政治家、哲学者(いかにも恣意的だし、こういうハイデガーという特殊個人的な好みを丸呑みすべきじゃないと思う)、と考えたのかもしれない。(しかし、それが真理というかディス=カバー・・・覆われたものを取り除いて本来的なものを開示するというように捉えるのは、若干人間原理的な夜郎自大的論理に思える。)

(グローバルなコンテクストに潜在していたものを、具体的なスペシフィックなローカルな文章として記すことが((コンテクスト自体は存在者ではないという意味で西田的には無だから、無が自分=コンテクストの潜在的な可能性を限定して、スペシフィック・ローカルな文章を現実化させる、すなわち無の自己限定。この構造と、いわゆる心理学的な自覚=没入していたシチュエーションを言語化して意識化する働き、と安易に重ね合わせている気がする。)(気がするだけで実証的な読みではない、私の勝手読み:汗)

ちなみに、鬼界=ウィトゲンシュタインの最終的な”私”は、そういう(クリプキウィトゲンシュタインパラドックスにおける、暗闇の中の跳躍)をし、引き受けるもの、として描かれている。こちらの方が、いわゆる人間理的な=あるいはライプニッツの最善世界選択説的な、”決断”風な語り方よりも、ずっと自然で夜郎自大的なところのない捉え方だと思う。

これらの議論を整理して(その中の幾つかのトピックは、学説の解釈としてはあまりに不十分なので放棄され、自分の考えとして表明しなおすことになるだろうけど)、さらにそれを別の、自分の哲学的興味(中島義道の時間論)とぶつけて、考えてみたい・・・と思いつつ、はや数年無為に過ぎてしまった・・・