12/28 「時間と自由」「時間論」 2004-12-28 22:45:47
今日は、中島義道の「時間と自由」を読む。平行して同氏の「時間論」も再読了。

「カントの自我論」では、時間の様相;必然性・現実性・可能性についてどう書いてあったか
気になりだす。いろいろ考えさせられる。今まで読んだときにはわからなかったことがずいぶんわかってくる。「カントの自我論」を読んで遡及的に今まで読んだり聞いたりしたことがわかってきたのである。

しかし、未来の位置づけには疑問が残る。未来をすべて現在の予期や予想として扱っていいのだろうか。確かに身体を介した端的な直観は未来にはない。であるから、普通の意味では存在しない。

しかし、実際のわれわれはそれを論理的に承認した上でも、未来というものを、常に既に承認していざるを得ないのではないか。未来を概念によって構成されたものとしても良いがそれに何らかの独特の身分を持たせてもいいのではないか、という気がする。

「カントの自我論」でもっとも積極的に触れられている「超越論的対象」が気になる。

また、ヒューバート・ドレイファスのハイデガー解釈における「公共性テーゼ」は、「カントの自我論」における超越論的統覚の開く「可能性」の様相を持つ世界とどう違うのか。似ている部分もあるが、明らかに異質な発想がある。それを見極めてみたい。