親への擁護 2005-01-09 14:07:17

先日の「塾の思い出あれこれ」を読むと、私の両親が子供(私)にきちんとした生活習慣を身につけさせることが出来なかった親失格のように受け取られかねないので、幾つか補足しておく。

親自身も、この子供をこういう風に育てればよかったと反省をしている点もあるだろう。しかしそういう後悔はどの親にもあるのではないか。

親に対していろいろ言いたかったことや不満があるが、この年になるとそういうことをいう気もなくなる。自分でそう思うなら、自分で自己を再教育するしかない。親に過ぎた子供時代のことを言ってどうなるのか。

もちろん、親に文句ばかり言って親に執着し、新しい人生を開くステップを踏み出せない人を、馬鹿にしたり否定する気はない。子供のころに受けた体験はやはり決定的な影響を及ぼす。だから子供に、強く批判されるようなことした(あるいはしなかった)親は親にも責任があるのだろう。

だが、それはそれとして、私から見れば、親に責任があってたとしても、もうその過去はどうしようもない。虐待、無視、誤った教育方針など本当にひどいことだ。だが、もう、過ぎた時間は絶対に取り返せない。だから、親に不満のある人はその不満に取り付かれ執着して過去にとらわれすぎることなく、自分で少しでも新しい人生を切り開いて欲しい。

しかし、それも当事者ではない傍観者(私)が勝手なことを言っているに過ぎないこともたしかだ。

ここで述べていることも、親へ不満や自分の反省ではなく、淡々と親との相性が良くなかったということが一倍言いたい。。「育てにくい子供」だったと親に同情する。親は私の性格や反応が普通の子供と違っているのでいろいろ悩んだに違いない。

明らかな学習障害人格障害ではなくても、根本的にどこか変わった子供がいる。私の親も心配して私を幾つかの専門家に見せに行ったようである。そのうちの何回かは私自身も覚えている。専門家には、明らかな異常は認められないので、経過を見ましょうと言われた。幼稚園で勝手に私だけ呼び出されて知能テストを受けさせられたこともある。その結果は知らない。

私の想像だが、落ち着きがないとか、好奇心が強すぎるというのは遺伝的な体質も影響しているのではないか。私はもう少し医学が進んだら、自分の遺伝体質を調べてみようかと思う。かっとなりやすい人、落ち込みやすい人、何とはなしに静かな人、そういう「体質」というのは確かにある。そしてその遺伝的影響も可能性としてあるのではないか。

深夜のアメリカのドキュメンタリー番組で、そういう自制できない子供を薬物によってコントロールする「治療法」を紹介していた。かなり前なので記憶があいまいだが幾つか考え方が紹介されていた。

一番多く紹介されていたのは、薬物を含んだパッチを子供に貼り付け、過剰な興奮を抑えるというものだった。

かなりの程度成功しているという「治療法」だったが、薬物で人間の精神をコントロールすることに慣れていない日本人の目には、やりすぎというか異様な光景と映ったのは確かだ。

まだ小学校前か低学年の少年を中心に紹介していた。その日の調子によって薬物の量をコントロールするのだが、時に少年が副作用で自分の髪の毛を引っ張って苦しんだりしているのを見ると、親はよくこういう(私から見ての主観的印象だが)虐待に近いことを許していると思った。

両親もインタビューに答えていたが、この「治療法」に満足しているという。実は父親も少年のときうまく集団行動が出来ない子供で、そのことで苦労したという。無駄な苦労は省いて、子供にはきちんと教育を受けさせたいという考えのようだ。

アメリカのこういうドキュメンタリーは必ず反対の意見も紹介する。この「治療法」の問題を指摘する人は、こういう風に自分を薬物でコントロールする習慣がついた子供は、思春期なり悩みなどがあると抵抗感なくドラッグに頼りやすくなると言っていた。また薬物の副作用も決して無視できるものではないという。

多少辛い思いをしても、きちんと集団行動ができるようになって、少年にきちんと教育を受けさせてやりたいという親の気持ちもわからないではない。本来知能は低くないのに、授業中集中できなくてだんだん不良になっていく同級生を確かに何人も見たことがある。

親は親なりに悩んだ上での決断だから、われわれがあまり触れたことのない「治療法」だからといって「虐待」と決め付けるわけにも行かない。

とはいえ、違和感はどこまでも残るだろう。中絶や尊厳死などと同じく、われわれが直面しつつある問題の一つなのである。

一つの考えとして「薬物に頼るのでは解決にならない。少年にはそれなりの特別な教育をして、自分で自分をコントロールできるようにしなければいけない」というのもある。この主張も説得力がある。皆さんはどう考えるか。

ここで、一つの話の補助線として、話が飛ぶように聞こえるが夜尿症の話をしたい。夜尿症は明らかな腎臓や膀胱の欠陥がないのに関わらず、寝ている間におしっこをしてしまう、よく子供に見られる症状である。従来の考えでは、親の関心を引くための無意識の行動とされ、甘えを無くすために厳しい態度で子供に接することが「科学的に正しい」と指導されていた。だが、最近はある遺伝体質の子供は、うまく尿の量の調節ができなくて夜尿症になることがわかってきた。全ての夜尿症ではないが、遺伝が原因の夜尿症の児童がかなりの割合を占めることが明らかになったのだ。

親に甘えているか否かは、少なくともそのタイプの子供には全く関係ないのである。
そういうこともには精神療法(自分で自分をコントロールする訓練ではなく)、薬物など体質に合った治療が必要なのだ。

話を戻すと、同じように好奇心が旺盛な子供が遺伝的な体質によるとしたら、精神的な教育だけでは解決できないのではないか。薬物を含んだ処置が必要なのではないか。

だが、だからと言ってどこまを「治療」が必要な障害とみなすべきなのか。テレビのあの少年は本当に「治療」が必要な「障害」なのだろうか。

そして過去何回か「異常」ではない、とは言われたボーダーの私は本当に「治療」は必要なかったのか。一通りのしつけと教育を受けても、そのほとんどを身につけることが出来なかったのは、事実ではないか。夜尿症と同じく、適切な薬物の治療が必要なのではないか。

話は繰り返すが、しかしそれは「異常」なのか。ただ集団行動が苦手だというのは、仮にそれが遺伝的体質でも必要な個性ではないのか。

そもそも人類が学校(子供が通って集団的に学ばされる)なるものを生み出したのは広く見ても何百年のオーダーの話だろう。まして近代的なかなり高度な管理を必要とする学校制度など、数十年単位でしかないはずだ。そのほかの圧倒的な時代、人類はそういう環境を生きたことがなかった。

人類がみな学校という特殊な環境に適応できるだろうか。出来ないと思う。子供は野山を駆け回って落ち着きがないのが当たり前だろう。行き過ぎた好奇心を持つ子供は事故で死んだだろうが、ぼんやりと昼間っから家に閉じこもって平気な子供ばかりでは人類が生き残れないだろうというのも確かなことである。仮にそういう好奇心が少ない部族は鉄も農耕も敵の襲来もうまく察知できず、進歩しないだろう。

自分自身が子供のとき、薬物療法(強固な矯正的教育)を受けたほうが良かったのか、と、少年がそういう教育を受けるべきか否かでは、話がまた少し違ってくる。

わかりやすく言えば、新興宗教のマインドコントロールを受けたほうがいいか否か、というのに似ている。私はそんな洗脳は受けたくないと今思うが、それはマインドコントロールを受けなかったからである。もし私がマインドコントロールを受けていれば、当然マインドコントロールを受けてよかった、と判断するだろう。自分が今と違う考えを持つようになったほうがいいか、という問いかけは、奇妙なねじれを含んでいる。

マインドコントロールは無論極端な例である。集団行動をするために薬物を使うか使わないか、という話を同列には扱えない。扱えないが、似ている部分もある。薬物使わなかったせいで、いろんな損失を受けたことも確かだ。集団生活は今でも苦手に感じることが多い。集団生活をうまく活用できなくて教育もうまく受けれなかったし、辛い日々を過ごした。それをどうにか克服しようと努力して今の自分に至るわけだが、人間の心理として努力して獲得したものに対しては、それがもっと楽に手に入ると知らされても、努力を否定したくないので「そんな獲得方法は邪道だ」とか言って認めたくないものだからである。

私も、理性では薬物療法を受けたほうがいい可能性を認めるが、感情では無理である。

こういう人間のいかんともしがたく複雑な個性を考えると、「親の顔が見てみたい」という言葉があまり説得力を持たなくなる。虐待や異常に歪んだ価値観を親が与えたというのでない限り、あまり子供がだめだからと言って使うべきではない。子供に人格があるのと同じように、親にも人格の存在を認めなくてはならない。つまり親と子は別人だ。

私の親の場合も、私の性格や行動で彼らの施したしつけや教育を批判されるのはかわいそうである。

どうにも個性の強い子供というのは、教育にあまり関係のない理由でも存在する、ということを認めて欲しい。

大体人間はこういう風に教育したらこうなる、というのは大雑把な傾向でしかない。いくらでも例外がいるし、そもそも親の期待したとおりに子供は育たないし育てない。

同じことが、今私が行っている自己再教育にも言える。

もし、人格の陶冶や仕事や人間関係の成功のためだけに努力を重ねても、努力がどう報われるかわかったものではない。遺伝的な夜尿症を精神療法で治そうとする努力と同じように無駄だ。

だから自己の再教育で一番必要なことは、目的−手段という思考法だけで捉えるのではなく、その自己の再教育自体が楽しみであり、目的でもあるような(付随して何かの成果があるような)努力をすべきではないか。幸い英語での読書は勉強と趣味が重なっている。仕事や人間関係もそう出来ればいいのだが。

自己の再教育については、また別の稿で述べたい。