日記  2005-01-05 10:05:42

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 ルイス・サッカーの「ホールズ」というペーパーバックを読み始めた。もう半分くらい読んだ。子供向きとはいえ挿絵もないし活字も小さい。ページも結構ある。こういう本を読めるようになってきたと思うと嬉しくなる。しかも話が面白い。彼の作品は結構読んだがどれも面白かった。児童書だから難しい文法や単語はあまりないが、それでも読みにくい部分が多々ある。私のレベルがそれくらいだということ。つっかえたりした部分は読み返したり飛ばしたりするが、その時は、知識を総動員せず、一切の日本語の思考をやめて直接把握を試みるようにしている。体育などで難しい技を練習しているような感覚に近い。そしてその方が楽しいのである。

 しかし必ずしも俺のやり方が良いとは思えない。母語ではない以上、文法規則を明示的に把握して処理する方が確実性が高いだろう。私はそう言う読み方をする人を知っている。東大を出たという大学の先生だ。その先生の授業で英文を読まされたのだが、先生の訳の仕方がものすごかった。「何々がコレスパンドでして、かくかくであるところの発見が・・・」という風に、英語を日本語とちゃんぽんで読んで読み進めていく。英語をざっと読んですぐに訳すのではない。英語を日本語として読み下していくのである。おそらく、文法の知識が具体的に彼の中にあり、暗号文を解くように、漢文を読むように、英文を読み下していくのだ。

 ものすごい事務的な処理能力で、ああすごいなあと思った。これが頭がいいということなのか、と思った。

 私の場合は、英語の文章を見てそのままで理解する方法しか出来ない。だから単純な文法でもそれが組み合わり少しだけ複雑な文章になると、直感的に把握できななくなる。解決法は頭で覚えたことを応用しているわけじゃなくて、体で覚えた読みの力を鍛えるしかないのだから、そういう場合はもう慣れるしかない。だからたくさん英語を読む必要を強く感じる。
 例の先生の場合は一回文法を把握してしまえば、どんどん官僚的に事務処理で読めるわけだから、多読の必要はない。そう考えると俺の方が分が悪い。

 面白いのは、私が英語の本を長い時間読んだあと、しばらくは頭の中で考えることを英語で考えたくなることだ。意識的にではなく、ぼんやり考えていることを脳みそが英語で言いたがっているのだ。しかし、まだ英語でいろいろ考えるほどの能力がないので、日本語で考えるように戻っていく。なんといえばいいのか、ああ買い物しなくちゃとかを英語で考えたくなるのだ。

 潜在的に考えているときは、日本語なのだろうか。明らかに顕在的な意識で考える場合は日本語でも英語でも可能なようだ。

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 ブックオフにて「言語の興亡」という新書を購入。予想したとおり、新書にしてはかなり専門性の高い内容。難解に感じるのは、系統樹モデル(まあそのとおり枝分かれする木をイメージ)や伝播主義(同心円や、等高線のイメージ)のような視覚的なモデルがいまいち私の中に出来ないから。

 時間をかけて少しづつ読んでいこうと思う。以前の日記で取り上げたノストラ語についても落とし前がつけられているようなので、楽しみである。
 
 油断すると、言語は優勢なものに取って代わられてしまうということ、発音や文法も知らず知らずにどんどん影響を受けること、ということが書いてある。

 考えてみれば、私の父なんかは「ディズニー」とかをちゃんと発音できない。祖父母にいたってはもっとである。われわれの世代になると、英語が全然出来なくても、スューとか、日本語に本来ない発音が出来る人も結構多い。逆にツ(tsu)が発音できなくて、トゥと言ってしまう人すらいる。鼻濁音の話しも聞いたことがあるが、あれをきちんとできる人なんてほとんどいないのではないか。

 知らず知らずに歌謡曲などで妙な発音に慣れ親しんでいるせいだろう。僕自身も、正しい日本語の発音をしている自信はない。正しい日本語って何さ、という気もするのだが。あるイデオロギーだとしか思えない。

 ふと思ったのは、日本の韓国統治は30数年で終わったから「まだしも」良かったのであって(私はそれが良いとは言っていない)、あれがあと10年20年たてば、韓国の人たちは民族意識は失わなくても、日本語で考え日本語で日本の植民地支配に抵抗せざるを得なくなっていただろう。言ったそうなると元に戻すのにまた何十年かかる。ぎりぎり危なかったわけである。

 西洋の知識人には本国で生まれ育ったのではない、植民地の知識人がたくさんいて、フランス語や英語で植民地支配を告発したりしている。彼らの内面はどれほど複雑なのだろうか。別に、それでどうこうと今ここで言いたいのではなくて、言語による支配というものの恐ろしさを改めて気づかされたと言いたいのである。

 大きな視点での言語のパワーバランスも面白いが、自分の中で、外国語を習得してやろう、それが大きな力になるという確信をも得た。(そういうことを言語の興亡が主張しているわけではなく私が勝手に連想しただけである。)