映画「カッコーの巣の上で」の感想 2005-01-04 22:34:01

 以下あらすじをアマゾンのエディターズレビューから引用します。

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オレゴン州の精神病院に、型破りな人間ランドルが送られてきた。仮病を使って刑務所を抜けだしたのだ。ランドルはなにかにつけて規律を乱し、ラチェッド婦長ら病院側と対立する。そしてついにランドルは患者を扇動した。
1975年のアカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞と、主要5部門を独占した名作である。ランドル役のジャック・ニコルソンの演技は、「他のハリウッドスターがアマチュアに見える」と賞賛されたほどの名演だ。ことごとくランドルと敵対するラチェッド婦長にはルイーズ・フレッチャーが、ランドルの親友チーフにはウィル・サンプソンが、ほかダニー・デビートクリストファー・ロイドなど、わき役に至るまで芸達者をそろえている。監督は『アマデウス』でもオスカーを獲った、チェコ出身のミロス・フォアマンだ。(アルジオン北村)

内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
アマデウス』のM・フォアマンが人間の自由と尊厳をテーマに描き、アカデミー賞5部門に輝いた傑作ドラマ。刑務所の強制労働から逃れるため狂人を装い、精神病院に連れられて来られたマクマーフィ。だがそこではもっと悲惨な状況が待っていた。


内容(「Oricon GE」データベースより)
ケン・キージーのベストセラー小説を映画化した作品。刑務所の強制労働から逃れるために精神疾患を装って精神病院に入所させられた男の巻き起こす騒動と悲劇を描く。出演はジャック・ニコルソン、ルイーズ・フレッチャーほか。


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 以上引用でした。

 この映画は極めてキリスト教的な雰囲気を(少なくとも私には)感じさせた。

 私の言うキリスト教は、厳密でも明確なものでもなく、非キリスト者である日本人の私が漠然と抱くキリスト教のことである。だから原始キリスト教や、ギリシャ正教コプト教などは含まれない。具体的に言えば、カトリックプロテスタントである。両者はかなり異なる部分もあると思うが、基本的に共通しているのは「人はみな罪びとである。」という原則の下、信仰のみがその苦悩を救うというものである。


 この構造は、カトリックだけではなくて、学校、病院、などにも明瞭に観察することが出来る。「人は皆、教育されなくていけない」「人は皆病んでいる」という前提の下、そこの人々規制し、その苦悩を癒すのである。

 カトリックにおいては具体的には僧侶が信者を規制し導く。しかし僧侶をカットして、聖書と自分自身によって、自分自身を癒すというあり方も当然あるだろう。あるいは、精神分析医と患者。個人主義においては、自分を変えることが出来るのは自分であるから、自分の主人は自分であり、自分は自分に従う奴隷でもある。学校における教師と生徒の関係は、明らかに僧侶と信者の関係に類似している。医師と患者もまた類似の関係を持つ。

 こういうあり方の起源を、歴史的にはキリスト教に求めることが出来ると思う。

 人に優しくとか、人を愛せよ、という教えは大体どの共同体にもあると思うが、キリスト教の興味深い特徴は、この治療者−患者のモデルを共同体の原理を超えるものとして採用したというところにあるだろう。治療者の前では、皆患者は黒人だろうがよそ者だろうが、癒されるべきなのである。普通は自分の家族を中心とした自分の属する共同体を愛するべきであって、それを超えた愛というのは危険である。

 こういう僧侶−信者モデルは歴史的にはキリスト教に起源を持つと思うが、だからと言って僧侶−信者モデルが根本的であるとか原理的であるということではない。無数にあるパターンのうち、歴史的に最初に拡散し定着したということだ。

 また、キリスト教の興味深い特殊な原理はこの僧侶−信者モデルだけではない。キリスト教は矛盾する原理がいくつも内在してその拮抗を力にして発展してきた。そのことにはあとでまた触れる。

 もう一つ言っておきたいことがあって、私の妄想かもしれないが、娯楽作品の中であっても、強迫的に反復されていく西洋文明特有のテーマがいくつもあると思う。ノアの箱舟モデルのように、少数の生存者が文明を再建するテーマなどは比較的わかりやすい例だが、時にはさりげなく反復されていてなんと言っていいのかわからないが、確かにキリスト教的だというパターンもある。

(以前ネット日記でアリーマイラブのそういうシーンについて書いたことがある。)

 この映画でもすごく印象的なシーンがいくつもある。主人公が、ここに入っている患者の多くが実は自主的に入院しているので、本当はその気になればいつでも外に出て行けると知らされるシーン。しかし主人公は精神異常の演技がうますぎて、本当の強制入院にさせられてしまう。

 彼はもともと刑務所の強制労働がいやで奇行を繰り返し、精神病院にわざと入院させられるよう仕向けたのだが、それがついにうまく行き過ぎてしまった、というわけである。

 皆、精神病院に入っているからと言って本当に重度の精神障害があるわけではない。日常生活に差しさわりがあるくらいに繊細で、普通に生きつづけて行くのが出来ないくらい弱者である人ばかりなのである。

 僧侶−信者モデルでは、信者は生きていくうえでの苦悩を僧侶が全面的に規定し、それを癒してくれることで信仰を求めるようになる。しかし大事なことは僧侶はイエスではない。イエスによる心の救済はあくまで見せ金であって、僧侶は直接奇跡を行わない。救済を受ける資格を信者に与え続け、それから逸脱すると厳しく警告懲罰する。もちろん、それは僧侶の「愛」なのである。

 この映画でも、「愛」の体現者である婦長さんがいる。彼女を単に官僚的だとか、冷たいというのはあさはかな見方だろう。彼女は彼女の熱意と愛を持って患者に接しているのだ。もし彼女が精神病棟に自由をもたらしすぎてしまえば、そこは外の世界と変わりなくなってくる。そうなってくると生き辛くなるのは患者自身なのである。患者たちは弱すぎて「自由」に耐えられない人たちである。注意深く厳格に自由を奪ってあげることこそが彼らのためなのである。「もし」救済がなされて彼らが外でも生きていけるのであれば、彼らはいつでも外に出て行けるのだ。「門は開かれている。」(カフカ 掟の門)

 主人公の男は女は抱くし酒は飲むし、暴力もずるがしこさも持っている「自由」に耐えられる男のように見える。彼は病院から何回も脱走したり、夜中に女と酒を持ち込んで大宴会を開いたりする。

 飲みすぎた彼は朝まで眠ってしまい、脱走し損ねてしまう。そしてそこで、「愛」という権力に押しつぶされて一人の青年が死ぬ。

 これも私の妄想だが、あの宴会の後婦長たちが朝やってきて怒るシーンは、モーゼが石版を持ってきたときに偶像崇拝の宴をやっていて、モーゼが激怒するシーンを連想させる。

 婦長は女だし「愛」の原理に基づいて組織された病院であっても、その本質は十戒のような権力であるとことが明瞭になるシーンだと思う。キリスト教はこの意味で、ユダヤ教の本質をきちんと受け継いでいる。のだと思う。

 何故主人公は逃げ出さなかったのか。もしそこで主人公が逃げ出してしまうと、もう一つのキリスト教的原理が表現できないからだと私は思う。確かに自らを病人(罪びと)として規定してもらい、自由を自ら放棄して、それをよこせと不満をたれて、時には小さな勝利を得て満足する弱者は自由ではない。では婦長や主人公は自由なのだろうか。

 いろんな見方があると思うが、キリスト教的には、彼らは決して自由ではありえない。女を抱く、気に入らないやつがいたら殴る、それは自由を行使しているように見えるが、キリスト教はここで「自由」の意味を拡張する。それはいわば表面的な自由なのである。ソクラテス風に言えば、体の中に虫や患部があり、それの求めるままに女を抱き気に入らないやつを殴る男がいたら、彼は自由だといえるだろうか。

 それは自由ではない、というのがキリスト教のもう一つの原理なのである。

 私の見るところ、キリスト教のさまざまな原理のうち一番根本的なのが、共同体の原理を解除する、あるいは不用意に使いたくない言葉だが、カルマを解除する、ということなのである。

 右の頬を打たれたら左の頬を差し出す、というのは今の自由の議論に即して言い換えるとこうなる。右の頬を撃たれたら殴り返すことが普通の意味で「自由」である。しかし、この自由の行使の連鎖は国家や支配者というものを生み出す論理の基盤であり、それが全体として大いなる不自由を生み出す。皆当たり前の自由を行使してきた結果が、このどうしようもないほど憎しみと権力で不自由極まりない社会なのだ。

 それを解除しよう。殴られたら殴り返さずにはいられないから殴っているのでは、結局それは自由ではない。そういうこと自体を、丸ごとやめよう。

 そういうメッセージを私はキリスト教から感じる。

 自由な力を持っている権力者たち、婦長や院長たちは、本当に自由なのではない。殴ったら殴り返すことを繰り返してきた人々が、恐怖のバランスを図って作った、国家や法や病院という装置の論理に従っている自由なのだ。

 ゴールディングの「蠅の王」もまた、キリスト教の反復であるような小説である。詳細は今書かないが、社会制度は、皆の中にある恐怖が生み出すのであり、それは恐れることではない、ということを告げにきたサイモンという少年は、逆に最も恐ろしいものが現れたと錯覚されてイエスのように殺されてしまうのである。

 主人公は外の世界に行けば行けた。しかし彼は逃げようと死ながらも逃げないままで、実質的に僧侶に精神的な去勢を受けることになる。
 この映画のすばらしいところは、イエスやサイモンのような宗教性に訴えることなく、宗教的な感動を与えてくれる最後のシーンにある。「本当の意味」での自由な人間はどこにも登場しない。しかし、この映画全体が「恐れることはない」から「病院の外に出よう」と訴えてくる。

 「外に出よう」「恐れることはない」という感動の力、これがキリスト教に内在しているエラン ヴィタルだと思う。

 そしてそれは常に挫折し続けている。この初発の感動と挫折を、キリスト教文明はしつこく何回も反復し続けている。当然その作品ごとにその意義や結果は違うのだが。

 僕はそういう作品に何回も感銘を受けてきた。「暴力脱獄」という映画や、グレッグ・イーガンの作品などである。いつかのこの系列の作品についた書評をまとめて書き直してみたいと思っている。

 こういう作業ははっきり言って学術的な価値はないし、読んでいて面白いブログになるわけでもない。しかし自分にとってはとても大切な作業だと思えるのだ。