格闘技談義 2005-01-03 16:22:20

私はプロ野球が好きではない。清原とかイチローなど有名な選手しか知らないし、どの球団が負けようが加藤が知ったことではない。同じようにサッカーにも関心がない。駅伝も正月にやるラグビーも好きでない。

しかし虚心坦懐に自分の心を振り返ってみるに、別にプロ野球もサッカーもそれ自体として積極的に嫌いではない。正確に言えば、よく知らないだけである。もちろん今急にテレビで野球やサッカーを見ても楽しめないのも確かだが、それは選手にもルールにも詳しくなく、見所が解らないからである。本当はそれなりに楽しめるのかもしれない。

つまり、理性的には野球もサッカーも嫌いではない。プレーンな立場なのだが、感情的にどうも好きになれない。感情の問題だから時々自分でもびっくりするような行動に発展することもある。
会社の食堂で食堂中の椅子と机を動かして、皆がワールドカップの中継を騒ぎながら見ているとき、一人だけ本を読み続けてみたこともある。歓談をしていると野球や競馬やマージャンなど僕の嫌いなものが良く話題になる。(よく話題になるから嫌いなのだが)そうすると自分でもよくないとわかっていながらも、「へー僕は全然知らないな。」「僕は興味ないな」「すごいねー(もちろん全くすごいなどと感じていない表情で)」と話の腰を折らずにはいられない。

とにかく、感情的にだめなのだ。昨日の、幽霊を信じていなくても怖い話を聞いたあとはトイレにいけなくなる、という話と似ているが;理性では野球も駅伝も面白いかもしれないと解っているが、どうも感情的に受け付けないのである。

その原因を振り返るに、それらに対する出会い方が悪かったのだろう。プロ野球は子供のころ見たいアニメなどが中継でつぶれてしまい、父がテレビを独占するので嫌いになった。それが一つのきっかけで、野球が嫌いになるとスポーツ観戦全体がなんとなく好きでなくなってきた。面白いことに、父はスポーツが好きだが格闘技が好きではないので、ボクシングなどは全く見ない。だから自分はそっちが好きになってきた。

まあ、しかしそれはあくまできっかけの一つに過ぎない。私は野球のみならず、競馬やマージャンという全然違うものも好きではないのだ。そしてそれらはほとんど同じ理由で嫌いなのである。

それらは少なくとも高校生男子や世間などで公民権を得ており、特に詳しくなくても皆一応知っているという社会生活の必修科目なのである。そしてそれが私が少年期、青年期と憎み通してきたものであった。

この感覚を説明するのは難しい。なんと言うか居酒屋に入ったらまず焼酎が好きな人でも「ビール」を頼まなくてはいけない、というような暗黙の圧力に似ている。

男の子だったら興味持っていて当たり前、何で野球好きじゃないの?という圧力をまざまざと感じれば感じるほど、それが二興味を持たないような自分を選択してきたのだ。私は元来了見が狭い子供だったので、誰が男は野球が好きと決めたのか?ふざけるな。ということで積極的に野球に関する知識を摂取しないようになって言ったのである。

私は同じような理由で、マージャンやパチンコ、合コン、競馬など、高校ではやっていたものどもがどんどん嫌いになっていった。

一言でくくれば、「○○なら××好きで当たり前」というのが憎いのである。

マージャンくらい一回くらいやったことあるでしょ。とか、サッカー見たことないんですか?という「お願いだからあるって言ってくださいよ。別に俺も好きじゃないけど普通ならやったことあるでしょ。無意味な波風立てないでくださいよ」圧力を憎んでいる。

家庭が共産党だったら、私は右翼になっていただろうし、家が愛国者ばかりだったら、私は革命家を志していたし、家が教育熱心だったら尾崎豊ブルーハーツみたいな落ちこぼれの慰めあいみたいな世界にのめりこんでいたかもしれない。

我が家はいずれでもなかったので、右翼にも左翼にも落ちころぼれにもならなかった。

そんな私が格闘技なら大好きというのは、一つは出合い方が良かったというのがある。私の周りにはあまり格闘技好きもいなかったし、格闘技ブームもまだそれほど盛り上がっていなかった。だから偶然テレビでやっているのを見て、素直に面白いと思うことが出来たのだ。

もし今くらいのブームになっていたら、絶対に好きになってはいなかったと思う。

もう一つ格闘技がすきなのは、プロレスが好きではないからでもある。
プロレスは子供のころに見て、こんなわけがない、と直観した。これはショーでありそれを楽しむのだろうとは思ったが、あほらしさが先にたち、今でもプロレスは見る気がしない。

でも決定的に嫌いになったのは、大学のときにプロレスが好きな知り合いと口論になってからである。相手の男子学生は、民主的な話し方を目指しているのか単にいやなやつかそれとも両方なのかわからないが、口角泡を飛ばし議論するタイプではなく、冷静に論理的に相手の議論を反論するタイプでもなく、ある程度議論をしたあと相手が違う意見を変えようとしないときは「そうか、君はそう考えるんだね。と微笑んで議論をやめるタイプであった。

そういう彼と何回か議論したせいで、いろんなものが嫌いになってしまったのだがそのときプロレスの話題が出て彼に、「プロレスも、いろんな約束事の中で戦っているわけだから完全に本気というわけじゃないよね。」(本当は八百長、一種のショーだし、それを暴露する元プロレスラーの本も出ているといいたかったのだが、我慢して穏やかに表現したのである。)といった。

すると彼は、「プロレスは完全に本気だよ。」という。びっくりして、「本気な部分ももちろんあるけど、一方的に攻撃を続けてはいけないとか、相手の技に協力してかからなきゃいけないとか、いろいろ約束があるでしょ。それを解ってみるのがプロレスの楽しみなんじゃないの?」と言ってみたら「あのねープロレスラーってすごい体を鍛えてやっているんだよ。見ていて解るじゃん」
「体鍛えるということと、本気で試合していることは違うよね。」

私も了見が狭い人間なので、よせばいいのにだいぶかっか来てしまっていた。すると彼は「あのサー、プロレスの技ってものすごく痛いんだよ。ろば君かかってみる?ろば君て実際に喧嘩したことあまりないんでしょう。(にやにや)」

プロレス技など、いくらでも子供のときかけられたことがあるし、その痛みだってわかる。むしろ解るからこそ、そこに一定のお約束があるのだとわかるのではないか。むしろ喧嘩や体を使った経験が子供のころであれあるからプロレスがお約束で成り立っているとわかるのではないか。
それをこともあろうに、私のことを実際の肉体の痛みを知らないもやしっ子のように罵って議論を打ち切るのだ。やつは。それでも、もしこのあと夜を徹してプロレス原理主義を(僕から見れば、彼こそ身体の現実を知らない脳内世界の住人なのだが)論理的に主張され、僕がそれを反論するということがあれば、彼の主張に賛成することはないと思うが、彼の信念、それを擁護する態度にある種の尊敬を感じ彼を認めプロレスを全否定することはなかったと思う。決定的なのは言うだけ言って議論を打ち切って自分の正しさを改めて確信する彼の態度の不快さ加減であった。

本当にあと少しでじゃあ実際にやってみるかというところだったが、さすがに大人気ないというのと、彼がもう私のことを議論するに値しないとみなしたのか、「まあ、本当のところはわからないよねえ」と笑って議論をやめてしまったので、そういうことは起きなかった。

しかし、それ以降完全に、プロレスが感情的に受け付けられなくなった。

ちょっと話が変わるが、私は共産主義を信じて社会のあらゆる集団に忍び込んで、組織しようとする人々が大嫌いである。今述べたプロレス原理主義のように、非論理的なスローガンで世の中を良くしようという活動に必ずもぐりこんで自分の組織を作ろうとするからだ。

とある社会運動とは全然関係ない場所で学生運動からスタートしてずっと運動に携わっているという人と口論になったことがある。それ以前にもそういう人には何人も会ったが、ほとんどは私の反論がくだらないという理由で議論を打ち切ってしまう。私のいないところで他の人を勧誘しようと方針を変えるのである。本当にくだらない連中であった。

しかし、その学生運動からずっと(直接学生時代の組織でやっているわけではなかったようだし、いわゆるオルグを今もしているわけではないようだったが)活動しているという人は、人にはいろんな考えがあり、容易には変わらないということを熟知しているひとだった。私の議論に冷静に時に感情的に反論し、社会情勢のいろんなことを議論した。結局私は彼の主張に完全に賛同することはなくなったが、それまでの革新勢力の活動家に対する感情的な嫌悪感はかなりなくなっていた。意見は違うが彼らなりに頑張っているということを感情的にも納得することが出来たのである。

かなり私が感情的になって辛らつなことを言ったのに関わらず、次の日の朝にはお互いに「楽しかったですね」と言って別れたのである。

やはり議論するということは大事なのだなあ、と思った。単に論理的に戦うというのが議論でもないし、罵倒しあうという口論でもない、両者の混合形態としての議論と言うものがあると思う。

感情的に凝り固まった憎しみを解除する方法としては、私は今のところそういう議論こそが大事だと思う。別に議論だけではないと思う。何か、単なる闘争でもなく、情報交換でもないようなやり取りというのがあるはずだ。

昔、野坂昭之と大島渚がぽこぽこ殴り合ってそのあと仲良くなったことがあったが、ああいうのがあると思うのだ。

そして、そういうやり取りこそ、僕の生活に不足しているものではないかと思う。日常の生活において特に。