12/29 翻訳家と言う仕事 2004-12-29 09:05:41

翻訳家というのは、本当に難しい仕事だと思う。英語が出来ても、なんと言うかその作品への感性がないと翻訳したことにならないからである。逆に言えば、根本を捉えている翻訳ならば多少の誤訳には目をつぶっても読者はついてくる。

岩波書店などのエンターテイメント性を放棄したような、英文学者が翻訳した文章は、もちろん例外もあろうが、一般的に申し上げて、ひどいものである。この年になってやって気づいてきたが、岩波文庫に収録されている外国の小説もその多くはその当初はエンターテイメントとして書かれているものも相当数あるはずなのである。もちろん現代のわれわれが読んで楽しいかは別ではあるが。うーんと自らの国語力のなさを嘆きながら読むような小説ではなかったりするものが多い。

今国語力といったが、ゆっくり読み直してみると、多くの翻訳されている文章は、完全に原語の印欧語的発想を取り去りきっておらず、日本語としてそもそもこなれきっていないままの文章が多い。大意は同じでも、叙述の順番や受身で表すかとか、細かいところがこなれていない。それが積み重なると同じ日本語のはずなのに、何か違う言葉を読んでいる気分になるときさえある。学術書ならともかく文学としては失格である。

岩波文庫の復刊フェアでフッセル(フッサール)の「純粋現象学現象学的哲学考案」要するにイデーンの翻訳が出たが、旧字旧かなのまんまであり、ああいう形での復刊は意味があるのだろうか。読んでいないのでわからないが、現代の読者にはいたずらに負担を与えるだけのように思う。ただ、昔「昔の人のほうがドイツ語は出来たんじゃないかなあ」と意外にも高評価だったので、読んでみてもいいのかもしれない。

ある知り合いの話を聞くと、翻訳の文章があまり好きでないから、海外の作品は読まないという。そんなことは決してないのだが、彼らが最初に読んだ、あるいは読まされた名作の翻訳がひどかったのだと思う。こういうのを訳害という。

その点、推理小説やSFは根本的にエンターテイメントであり、つまらなければ翻訳家は仕事を失うから岩波文庫と違って面白く訳すというインセンティブが働いており、割合まともな翻訳が多い。

また、このSF作家はこの人、というのも目に付く。ブルース・スターリングならば小川隆だし、ディックなら浅倉久志ウィリアム・ギブスンなら黒丸尚、とかずらずら思いつく。

こういう風にしてると、その作家のあまり有名でない作品などを翻訳家が粘り強くブッシュして翻訳したり出来るからいいと思う。

また恐怖小説ならば平井呈一などが思い浮かぶ。癖があるといえば癖があるのだろうが、恐怖小説の雰囲気をよく出していて、私は好きである。

横田順彌氏の日本のSF翻訳の歴史の研究を見ると、昔の人は翻訳と言いながら話を大幅に書き換えたりばっさり余分なところは切ったり貼ったりということをしていたという。ずいぶん乱暴な、という気もするが、同時にそこまでしないと読者の楽しめるものになりにくかったという事情もあるのではないか。

そういう乱暴な気風が平井呈一氏の翻訳にもあるような気がする。自分が深く恐怖小説を理解しているがゆえに、結構思い切った翻訳をしているように思う。

難しい問題だが、こういうのは直ちに「訳害」と決め付けるわけにはいかぬ。だいぶこういう翻訳にこそお世話になってきた、というのがあるからである。どうしても正確なのを読みたければ、自分で原書を読めば?という話なのである。

どんどん話がそれていくが、昔から気になっているのが、クトゥルーものの、呪文というか掛け声というか例の「い、いあーいあー、はすたあ。ふんぐるいえ、むぐるうなふう、る・りえー」とかの言葉どもである。一度ラブクラフトの小説をまったく読んだことがない人にラブクラフトの小説を説明したときに一番困ったのがこの言葉どもである。

よく読んでみるとこれらは邪神を召還する呪文として使われているわけではないようだ。いや、召還的なニュアンスもあるが、邪神をたたえる言葉でもあり、狂乱した語り手が叫ぶ掛け声のようなものである。歌舞伎ではないが、すれた読者になると話が盛り上がってくると(そろそろかな?)という気がしてくると果たせるかな、「いあーはすたあ」と叫ぶ。それを読者が喝采するという形式が成り立っている。吉本のギャグと同じでわかっていても、それがいいのだ。

で、それらの言葉どもなのだが、翻訳によってだいぶ違っている。そもそもクトゥルーという呼び方自体が「クトゥルフ」「ク・リトル・リトル」とか定まっていないのだ。

ラブクラフト以外で、クトゥルウものを書いている作家の中には、これらの言葉を単なる呪文として理解しているものも多い。それは間違いではないが、私の好みには合わない。なんだかわからないが、高まったときに発せられる掛け声、だから面白いのである。別にそれで邪神が召還されなくても一向に構わないのだ。

まあその話はおいておいて、結局本当の掛け声の読み方は何なんだ。というのが疑問なのである。
この間新宿のジュンク堂の洋書売り場でラブクラフト全集のペーパーバックを見つけ、立ち読みしてきた。ラブクラフトは話に聞けば語彙はやたら難解だし大げさでいい文章とはまったくいえないというから英語力が足りない今はとても挑戦する気にはなれない。しかし原書の「インスマウスの影」で、あの老人が酔いどれながら高まっていくシーンを拾い読みして、ちょっと感動したのは事実である。

英語の勉強に、好きな短編を個人的に翻訳してみるのもいいかなと思う。そうすれば翻訳について何がしかわかるだろうし、原典についても理解が深まるだろう。そして、自分なりに例の掛け声を翻訳してみたらどれほど法悦であろうか。

そうすることで、翻って今まで読んできた翻訳作品について見方が変わるだろうか。だとしたらそれは私の一大転機になるだろうという気がする。