「カントの自我論」雑感。死を主題にして 2004-12-26 14:29:51

中島義道氏の「カントの自我論」にとりあえず目を通して、いくつか思いついたことがあるので、簡単に書いておく。これから何回も再読するうちにこの感想は変わっていくだろうし、またそうでなくてはいけないと思うが、とりあえず書いておく。

大まかに述べておくと、私の感想は二つに分けられる。

?「私の心」が「私」そのものではないということ。そして、そのことを踏まえていない現代のほとんどの哲学的議論、宗教的議論がカントの批判する「合理的心理学」に含まれるのではないか。
カントの批判する合理的心理学と同じ論法で、「心」や「魂」を「私」と同一視しているとは限らないが、それでもカントの批判の射程に収まるのではないか。

?よくSFや漫画などである、自分の複製を作るとか、物質を情報化して転送して再生する装置など、あるいは脳移植、記憶移植などの議論は一見荒唐無稽であり思考実験以上の真実性を持たないように思える。だが、虚心坦懐に検討してみれば、これらの荒唐無稽な設定はほとんどそのまま「死後の『私』の存続」に関わる議論に応用できるということ。つまり、カントの議論の土俵にそのまま乗るということ。

?については、僕以外の専門の哲学者や心理学者が論じているかもしれないし、かって読みの感想を述べるにさえまだ、至らないので、宿題としてとっておく。

よって、ここではまず?の観点を大雑把に述べる。もとより練られたアイデアではないのでその点はご容赦いただきたい。

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*「私の身体」を度外視して「私の死」を考えることは出来ない

ごく当然のことであるが、我々が死ぬ時、我々の精神活動だけではなく身体の機能も停止する。(少なくとも現世側から見て。)機能が停止した身体は、特別な処置を施さなければ崩壊していく。

この当たり前の事実が、死や死後の生を論じるときに軽視されがちである。しかし、当然過ぎるこの前提をいささかなりとも反省してみると、それなり見えてくるものがあるのではないか。以下それを示したい。

死後の生を主張する立場でも、精神活動が存続することは認めても、現世における身体の機能の尊属は主張しない。なぜなら、身体と精神の機能が停止せずあるいはいったん停止してもそのあと回復すれば、その身体の持ち主は「死んだ」のではなく、生きているとみなさなくてはいけないからである。その停止している期間を「死」と呼ぶことも出来るが、復活したあとは「死後の生」ではなく、「生き返った」と主張しなくてはいけないだろう。

したがって、死後の生を主張する立場は、身体の消滅後も、精神活動は存続すると主張しているのでなければならない。

死後も身体を持って活動し続けると主張するとしても、それは現世におけるこの身体ではなく、それとそっくりな身体が、別の世界で存続すると主張するのでなくてはならない。死んだあと、仮にこの身体が行き続け、死後の世界でもそれとそっくりな身体を持った私が存続するとすれば、現世の身体の持ち主は誰なのか。それは死んだといえるのか。もちろんそういう状況は死んだとは言えず、あるときを境に別の世界に自分そっくりの人間が発生したとみなさざるをえない。

要するに、我々が精神活動のみならず、身体を伴って死後も存続し続けると主張する宗教があったとしても、その死後の「身体」は、現世の身体とは別の身体でなければならない。(例えそれが生前の身体と寸分たがわないものだとしても)

多くの宗教は、現世の身体が腐敗し崩壊しても、それと寸分違わない、あるいは過去若くて健康だったときの身体になって別の世界に存続するという設定を採用している。

(余計な補足。アメリカのキリスト教系の新興宗教の中には、『昇天』を文字通りに解釈して、この現世の身体ごと神に召されると主張するところもあるそうだ。現世の身体ごと別の世界に持っていかれる、というわけである。その昇天を「死」日常の感覚で『死』と認めるかどうかは難しいところである。UFOにさらわれて異星で暮らすというのとほとんど変わらないからだ。そして異星にさらわれる場合は、普通『死』とは呼ばないから。)


ここまでで言えることは「死後『私』がどうなるかはさまざまに想定しえるが、ほとんどすべての主張が、現世での『私』の身体の消滅を認めざるをえない。無理に身体の消滅を否定すると、そもそも「死」を否定しているのかどうかがあいまいになってしまう。」ということになる。

*死後も存続するものは何か

以上の主張を踏まえると通常の「死後の私の存続」を主張する立場は、現世におけるこの身体ではなく、その精神活動が存続すると主張していることになる。

いくつか、形而上学的な疑問をここで提出することが出来る。私の現世のこの身体が存続するのではないとすると、別な世界であるいは別な構成要素で(アストラル体とか幽体とか)構成される身体は、「今の私の」身体ではない、ということが出来る。死後の私の存続を認めるとしても、身体の連続性はそこで断絶している。

では、なぜ精神活動においては、断絶を認めないのか。あるいは本当は断絶しているのか。

「死」という事態だけを捉えると、死後も仮に精神活動が存続しているのならば、「私」も存続していると言っていいように思える。しかし、ここで幾何学の問題を解くときの補助線のように、死以外の類似の形而上学的思考実験を行うことで、事態は異なる様相を見せるだろう。

*「死」の議論は、ありうる形而上学的可能性の中の、現実に成立する一つの可能性に過ぎない。

空想・仮想・思考実験の領域においては、「死」だけが「私の身体の消滅後の私の存続」の可能性ではない。脳移植・記憶移植・身体を寸分違わず再生する複製装置など空想科学を使ってもよいし、魔法や何の理由もなく自分の身体が二つに分裂したという全くの仮想でもよいが、とにかくさまざまなバリエーションを持って「私の身体の消滅後の、私の存続」を考えることが出来る。

そのバリエーションのうち、現在のところ科学の立場からは「死」だけが唯一現実的な可能性なのである。

最初にも述べたが、この事実を指摘したかっただけであり、ここから何らかの帰結や展望を示そうというつもりは私にはない。何らかの哲学上の立場を主張するだけの段階にはない。

具体的なイメージを描く手助けにするために、以下有名なSFの設定とそれを巡るいくつかの形而上学的な見解を述べて、それが「死」にも応用できることを示してみたい。


未完 続きます。