12/21 手塚先生のこと。自分自身に言い聞かせていること。「もっと愚かになりたい」

かなり長く日記を書いたのに、投稿するときにはねられて消えてしまった。不愉快極まりない。投稿画面に入っているのに、もう一度IDを要求されるのはどういう理由なのだろう。もちろん、どこかに予備で保存しておいて投稿すればいいのだが、うっかり忘れてしまった。

同じことは書きたくないので、仕方なく今日の日記ではなく、今日の日記を書いて思い出したことを書いておく。

もし尊敬する人は誰ですか、と聞かれたら悩みながら、手塚治虫先生ですと答えるだろう。というのはほかに尊敬する漫画家の多くも手塚先生を尊敬しているであろうから、という理由もある。もう一つは、手塚治虫先生は世間に評価されていると同時に、僕の好きな狂気を持っている人だからでもある。

手塚先生は終戦を迎えたとき、「これで漫画が描ける!」と思って喜んだそうである。普通の人の感想ではない。

手塚先生は、初期の作品では漫画というジャンルそのもの可能性をどんどん広げていくような、「天才型」の仕事をした。しかし、いかなる天才であれ、常に時代の前衛であるわけには行かない。しかし手塚先生はもう既に大家であるにもかかわらず、常に若手や新人の作品を研究して対抗していた。それが必ずしも成功したといえないものの多いのだが、自他認める権威が、自分のスタイルを棄てて劇画タッチやあっさりしたユーモア漫画風のタッチを真似するというのは想像できない勇気があると思う。

言ってみればおかしい人なのである。馬鹿なのである。本当に偉大な馬鹿であると思う。
先生は長編から短編まで本当に膨大な量の作品を残している。その中には不朽の名作もあるが、ファンの目から見ても破綻して失敗したものもずいぶん多いし、もはや現代の目からは古臭くてそのままでは楽しめないものもある。しかし、それはそれで私が先生を尊敬する部分でもある。

質においても量においてもとにかく全力を尽くした証拠、といえないだろうか。
手塚作品のようなすばらしい作品を作ったクリエイターはたくさんいると思うが、そのうちの多くの人は、自分の成功した作品それ自体が呪縛となって寡作になってしまう人もいると思う。

手塚先生はその時点でのベストを尽くしているので、不出来な作品にそこまで恐れを持たなかったのかもしれない。たぶん、もっと正確に言えば、「私にはこれしかない。」という呪いのようなものを感じていたのかもしれない。2004-12-21 22:43:54
私も、私自身というちっぽけなものはどうでもいいから、手塚先生のように「私にはこれしかない」というくらい、馬鹿になりたい。

私は手塚先生のような才能を持ってはいない。もってはいないが、それが何だというのか。自分の能力のなさが何だというのか。本当の充実した生の基準は、自分がどれだけそれに呪われているのか、馬鹿であるかということにある。

大杉栄の詩に「私はきちがいになりたい」という詩がある。それは実にまさしく今日日記に書いてきたような気持ちをうたった詩だ。今まさしく大杉栄の気分に賛成できる。

ここ最近の日記は、小ざかしく生きようとして疲弊した精神の愚痴であった。愚かさが足りなかった。私には哲学と創作しかない。今日は手塚先生のことをたまたま書いたが、膨大な数の諸先生方の代表として書かせていただいたに過ぎない。そういったすべての人々に、今感謝の気持ちでいっぱいである。

私は今肉体も精神もくたくたに疲弊しているが、久しぶりに晴れやかな気分だ。