12/20 「上座仏教の修行法」 2004-12-20 21:57:04

今日も勉強はせず。その代わり、電車や休み時間に「カントの自我論」を読む。
やはり疲れていると、英語と同じで、哲学の本も読めない。休みながら頑張って読む。

年末年始は、まるまる二週間くらい休み予定だったのが、勉強になるから、よければ別の支店で働いてみないか、という話があったので受けることにした。休みに遅れを取り戻すつもりで怠けていたが、そろそろ頑張って勉強を再開しなければ。

話はぜんぜん変わるが、この間ちょっとショックなことがあったので書いておく。
池袋のリブロに行っていろんな本を眺めているうちに、養老孟司と仏教の僧侶が対談している本を見つけ、チラッと立ち読みしてみた。そうすると上座仏教では、われわれが日本の禅などでイメージするようなこととはぜんぜん違う修行をしているらしい。それは、瞑想ではなく、普段のあらゆる振る舞いをするとに、自分が今何を考えているかを自覚する、というものだそうだ。

子供のときから仏教が好きで詳しくないものの、時々図書館で、中村元の本を借りてきたりしたこともあったのだが、こういう修行法があるなんてぜんぜん書いてなかったと思う。それとも私が読み飛ばしたのだろうか。

そうなると、日本の禅と中国の禅や、タイなどで行われている修行と、スリランカの修行と、ぜんぜん違っているのではないだろうか。武術などでも、時代が変わればいつの間に動作が変わってきてしまうという。仏教の変化は教義のみならず、修行法においても根本的な変化があったということだろうか。

表面的なことだけでなく、本当に(素人が、自分の関心の範囲においてのであるが)仏教を調べたくなった。ジャイナ教などについても中村博士の本以外も読んでみる必要があるだろう。中村博士の著作集はとても読みやすく、中村博士が斯界の泰斗と称せられてる方のように思ったので、そこからいろんな本を読み広げるに至らなかった。知的な怠惰であった。

もし、原始仏教とたとえば禅宗が異なる修行を行っているのなら、その変化はいつ生じたのか。私は何も知らない。本当に無知だった。

痛恨の極みとまでは言わないが、残念の一言だ。ともあれ、勉強するテーマがまた一つ増えたのだから喜ぶべきことだろう。