12/16  峠・狂っていく白人女性の小説・禅批判

クランベリーズのゾンビとか、イエローモンキーの峠とか、濃いのばかり聞いている。疲れてしまった。昔の人は違うのかもしれないが、現代に生きている人はかなり精神が弱いと思う。自分もまたかなり弱いと思う。神経症心身症の人が増えているというが、油断すると正社員にさえなっていてのに、具合が悪くなりそうだ。これしきのストレスだが、いい加減嫌になってくる。

今読んでいるペンギンリーダーズも非常に暗い。陰惨。南アフリカの白人女性が、婚期を逃して貧乏でさえない男と結婚し、暑さと、貧しさの中で徐々に狂っていく。最後に彼女は誰かに殴り殺される。というか彼女が殴り殺されて、召使の黒人が有無を言わさず逮捕されたところから話がさかのぼって始まるので、話は、彼女がなぜ、誰に殺されたのか、というところに眼目がある。読んでいるこっちも、うんざりする。人種差別、欲求不満。絶望。恥辱。というものが、僕の誇張でなく詰まっている。

簡約版でない原作を読んだ人は相当タフな人だろう。

映画とかになっていないのだろうか。憎しみ。赤い土。汚らしい家。

昔、君は働くのに向いてない。ほかにやれることがないから哲学をやりなさいといわれたとき、なぜそんなことを言うのかよくわからなかったが、今ならよくわかる。社会生活に向いていないのだ。

反社会になるほどにも、社会性を欠いている。無理に会う場所を探せば、浮浪者とかそういうものになるだろう。今の世の中は豊かだからどうにかしなないで生きていけるだろう。そういう自分のような変わり者がテレビの番組に良く出ている。

ああいうのを見ると、自分の中のいろんな要素が思いもかけない形で誇張されているような気がして、時々はっとすることがある。自分もまたあのような変人なのか。

よくかっこいい狂気をいろんな映画や小説などで見かけるが、現実の狂気はもっと平凡でつまらない。狂気は正気の現実がそうであるように、平凡でつまらない。ほとんど、ただの故障、というだけだろう。

僕もまた、いろいろ故障している気がする。

そういえば、こないだ禅の公案の様に生きたい、ということを書いたが、実際に禅宗に詳しいわけではない。しかし、実際の近代の禅僧についてはあまりいい印象を持っていない。

鬼面を人を驚かすというか、何かいやみというか臭みを持つ気がする。細川亮一は、ハイデガーを禅を媒介として理解する日本の傾向を強く批判している。細川亮一はあまり好きではないが、この彼の批判には全面的に賛成できる。ハイデガーの研究所や翻訳書を読むと、仏教からとった用語を翻訳後に使ったり、禅の境地からみて、ハイデガーもまだまだなあ、と断ずる論者さえいる。
翻訳者の名前を見ても僧侶っぽいのがちらほら見える。

ある高名な禅僧が、ハイデガーと対談をしていて(確かユングともしていたのを読んだ気がする)、それもまた禅僧が西洋文化全体を一蹴している感じがして面白かった。ハイデガー自体が権力的というか基本的に人を見下している感じだから、この東洋の果てから来て、言いたい放題で座談会を引っ掻き回す僧侶に困りながら、どうにか収拾をつけようとしていて面白い。最後に話が撮りとめもなくなり、公案をパロディして隻手の声を聞け、といって座談会を終わらせてしまうのがまた愉快である。参加者や紹介者は何か高邁なもののように扱っているが、全体としてのくだらなさを、ハイデガーのこの所作が示しているように思う。

しかし、確か西谷啓治だったと思うが、座談会中の禅僧の応答を気持ち悪いくらいにべたぼめしていて非常に不愉快であった。しかし、ハイデガーは確かに西洋の優位そしてその中でギリシア−ドイツのラインを確信していたとはいえ、パウル・クレーを非常に評価していたし、禅味がないとはいえない。

確かに根源的な芸術だと、どこでわかるのですが、と聞かれて、「それは根源からわかります」という答えは、うまい切り替えしだと思うが、それがうまいだけに、なんか嫌なのである。

彼は禅僧の癖に哲学めいた運動を始めている。それもいかがなものか、と思う。禅坊主はもっと社会的に意義のあることをしないで、泰然とくだらない生き方をしてほしいものだ

ちっともくだらなくない禅僧は、どこか嫌味である。

禅はすごく面白そうなのだが・・・別に悟りたくはないんだなあ。見性して見性しつぶれるような体験も別にしたくない。したくはないが、何か惹かれるものがある。

やはり自分の中に狂気と言うか限界を一点突破して彼岸に行きたいという欲求があるのだろう。
しかし、仮に何か異様な境地に達したところで、それを現実の世界に導入するならば、嫌味な人間が生まれてしまうのではないか。碁盤の外に石を置けるようになった人は、碁盤の中にしか石を置けない人間に対し、何がしかの優越を感じるだろう。

そういうタイプの態度変更が禅僧に起きがちな気がする。悟後の修行が足りないのだ。

じゃあ何がいいんだ、といわれれば、何も答えられない。今のところ、これらの発言は自分勝手な好き嫌いでしかない。答えは自分の人生を通じて示すしかないだろう。

疲弊して痛む体に鞭打ち、文章を書き続けて、何かようやく「底」にたどりついた気がする。
今日はもう寝よう。