日本語が亡びる時・・・の読前感(笑)

最近は、毎日gooブログから数年前の日記を転載していましたが、今日は久しぶりにリアルタイムで書いてみます。

「日本語が亡びる時」という本、梅田先生が絶賛したので、はてな界隈で話題になっていますが、私は仕事の関係で本屋に立ち寄る暇が無く、未読の状態です。
ですがいろいろな断片的な情報から、おのずと醸成される想念というものもあり、一応その当該書籍とは関係ない話として、その読後感ならぬ”読前感”を記してみようと思います。

といっても晩酌でキーボードを正確に打つが難しい状態ですから、あとで恥ずかしくなって消すかもしれませんが・・・(苦笑)

☆日本語は比較的亡びにくい言語

無文字状態から、一気に西洋の宗主国のアルファベットを導入して自国語を表記、しかし知的な議論をするときはフランス語を使わないといけない、という文化に比べれば、日本語は学問レベルの議論を自国語でできるだけの水準にあり、知的階級の人間が議論するとき「自国語ではまだるっこしくて」宗主国の言語で議論するということはありません。むしろ国家元首天皇ではなく総理大臣のことです)でさえ、日常言語としてまでは英語を使えないのが現状です。
その意味では、われわれの日常言語までが、英語に侵食されるという事態は、なかなか考えづらい。つまり、そういう意味での日本語の亡びるという事態は考えにくいのです。


☆問題は翻訳というタイムラグと文化的コスト


どこかのネットで読みかじってそのサイトも忘れてしまったくらいのうろ覚えなのですが、中国の言語は、話し言葉と文語にかなりの隔絶があるそうですね。(もし固有名の中国語にこの議論があてはまらないとしても、そういう架空の文化もありえるはずなので、そう思って読んでください)。自国語ではあっても、まともな書き言葉文化にアクセスできるようになるためには、古典を読み、故事成語をたくさん蓄えないといけない文化があるそうです。

そうすると、潜在的に知的能力が高くても、書き言葉の世界に参入するためには一定の教養を身につけうる環境に恵まれなければならないわけです。

その点、われわれの日本語には、文語と書き言葉の間に相応の差異はあっても、クォンタムジャンプは必要ない。ブログを見てもわかるように、きちんとした教養言語と、くだけた日常言語はなだらかに連続しております。ある程度文章が書ける人ならば(論文作法などは別として)、自習独学で高度な教養言語を扱えるようになる可能性が十分ある。(その大元には、夏目漱石の切りひらいた、新しい日本語という空間があるのですが、それを語るだけの知識も能力も、残念ながら私にはありません。)

中間総括的に書けば、日本語には書き言葉も話し言葉も、抽象的概念も日本語にて自給自足でき、生態系として安定しております。にわかにこれらが破綻するとは思えない。

しかし、それは長く見れば平安時代以降ずっと超大国中国の文化を受容してきたという事実、また明治以降、西洋文明を積極的に受容・消化してきたという先輩方の努力があってこそです。

ですが、しかし・・・(ここからが私の”読前感”ネット時代の現在・そして近未来、最先端の分野においては、そうした先輩たちの努力が不要になってしまうとしたらどうか。もっと具体的に言えば、翻訳というコスト、タイムラグをすっとばしてしまうことの方が圧倒的に有利になってしまったらどうか。

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はてな界隈でのこの話題の発信源は梅田先生ですが、梅田先生は悪意なきエリート主義というか、当たり前のように上から見た3%しか視界にありません。

特にITやサイエンスの分野において、ネットという高速道路が普及した時代、上位数パーセントの青少年が、もはや翻訳のコストとタイムラグを許容するかどうか。しないのではないか。それが続いて行けば、高度な議論はコイネーやラテン語や書き言葉の中国語で、その他は自国語でという分裂が再び起きるのではないか。

日本語の美点として、高度な教養言語と日常言語世界に、明確な断絶が無いことを指摘してみましたが、再びそれが起きるのではないか。若い連中(ローティーンを念頭においてます)にはネットがある。一番ホットで面白いトピックありつくためなら労を惜しまない(英語を習得するくらい屁とも思わない)連中がいます。

いきなり論証力に欠ける自分の、しかも仮定の話で恐縮ですが、もし、俺の幼少期にネットがあって、アマゾンがあって、大好きなホラーやSFの原書に容易にアクセスしうるとしたら、今頃英語は完全にマスター(少なくとも読むことに関しては)していた自信があります。

でも現にそうでないのは、まず小松左京など日本人作家でも優れたSFを読むことができたからです。そしてなにより、優れた海外SFには優れたSF翻訳の分厚い蓄積があって、それで十分楽しめたから、です。アシモフもクラークもハインラインもディックも、その主要な作品はすべて(それもかなりレベルの高い)翻訳で安価に楽しむことができました。英語を学ぶよりずっとその方が楽だった。

SFだけじゃなく、実際にきちんと理解・読解するには原語を当たる必要があるはずの、カントとかヘーゲルとかハイデガーまでも、日本語に訳されて買うだけなら意欲的な中学生でもできるのです。これは実に素晴らしいことです。

しかしそれが徐々に翻訳を介さずに楽しむ人が増え、翻訳SFが(翻訳哲学が、翻訳科学が、翻訳xxが・・・)マーケットとして縮小し続けていったら?

私が中年になるころ、よほどのポピュラーなSFじゃなければ(ハリウッド映画の原作になるような)翻訳されない、という時代になっているかもしれません。そうなれば、その時代の少年少女はSFの楽しさに気づかないか、気づくとしてもダイレクトに英語でSFを楽しんでいるはずです。そうなれば、将来の日本人のSF作家は、英語でSFを書くことでしょう。

これをプログラミングとか、サイエンスとか、自分の好きなジャンルの名前を代入してみてください。

恐らく、教養言語としての日本語の成長は止まり、ちょっと抽象的で高度な議論をするときは「まだるっこしくて英語で話す」日本人が誕生します。
そして、「知的には能力はあるが、英語を話せない故に、教養的・高度な話題にアクセスできない日本語人」も誕生します。

これは決して珍しい光景ではなく、最初に述べたように、高度な議論は宗主国の言語を使用しないと議論できない国はたくさん今でもあるわけです。そうしてそういう国は、インテリとそうでない人がはっきりとわかれており、何か国内で騒乱が起きれば、インテリ憎悪がものすごい形で噴出したりするわけです。


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これが、はてな界隈で物議を醸している本の主張とかぶるかどうかはわかりません。でも今の私が、「日本語が亡びる時」というタイトルで何か書けといわれたら、こういった論旨で何かを書くと思います。もしそうなれば、やがて日本語の生態系は貧寒になり、成長を止めます。母国語でありながら、そこに中心的なアイデンティティ(ex.SFが死ぬほど好きだが日本語で((翻訳されたSFがないので))読めない)をおくことができない時代がくるかもしれません。

明日、営業先の町の本屋に、「日本語が亡びる時」があれば買ってみます。読んでみて(私は著者の名前さえ知りませんでした:苦笑)全然違ったら大笑いですが・・・