12/14   家住期・クランベリーズ・高橋和巳「捨子物語」働いて、家で日課の勉強をするともうくたくただ。

鏡を見ると、自分で思っていた以上に疲れた顔をしている。

勉強をすることが負担になっているのだ。勉強するのにも、やはり適した時期がある。私はとっくに学生期(がくしょうき)を過ぎ、家住期(かじゅうき)に入っている。(バラモン教は人生を四つの時期に分けた。)現代は、バラモン経典が作られた頃より遥かに寿命が長いから、そのままバラモン教の人生区分を自分に当てはめるわけには行かない。とはいえそれを考慮しても、今の自分は勉強する時期ではなく勉強してきたことを実際に試して磨いていく時期であるべきだろう。

まして、今している勉強は到底年齢にふさわしくない、ごく基礎的な語学に過ぎない。本来は若いときに済ませておくべき勉強である。仕事で生かす資格などとは質が違う勉強だ。語学をきちんと若いときに済ませておいた人は、今は語学を生かして読書や海外の友人を作って楽しんでいるのだろう。

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疲れていると日記の内容も悲観的になる。かといって怠け呆けていては、それこそできないことだらけのまま一生を終える羽目になる。悲観的になりすぎず、やるだけやろう。

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クランベリーズを聞いていると、音楽はいいなと思う。初期に作られて、それがいきなり大ヒットとなったという「ドリムーズ」はやはりいい。初期のいろいろやろうとしているときに、偶然いろんな要素がぶつかってすごい曲を作れたのだろう。


それで少し思ったことがある。

ライターズブロックというのがある。主に職業作家がスランプに陥って書けなくなること、を壁などに例えてそう表現する。多分、それと同じことが、作家になる前の志願者にもあるのではないか。つまり、作品世界を開くには、ある閾値、ある壁を超える必要があるのではないか。

アシモフのようにごく若いときから傑作を生み出し続けるタイプの人もいるが、僕はそうではない。多くの人は、書きたいが書けないという悪戦苦闘を経験しているはずである。それを乗り越え、なおかつ世間に認められた人が職業作家になれるのである。

私は、未熟であるが自分の中に様々な要素が潜勢している作品を書きたい。今念頭に描いているのは、高橋和巳の「捨子物語」である。この作品は実質的な高橋和巳の最初の作品である。いろいろ冗長な部分もあり最高傑作というわけではないが、高橋和巳の個性がそのまま出ている。高橋和巳の作品世界におけるエラン・ヴィタル(ベルクソンが想定した物質が生命へと展開するときに与えられた生命力の一撃のこと)が溢れている。

「捨子物語」冒頭で、主人公は病を得て死の床にある。その主人公が自分の少年時代を回想するという形式を取っている。偶然かもしれないが、高橋和巳は実際に壮年において病死している。極めて暗示的なものを感じる。その作品は完成度は高くないかもしれないが、ところどころ、他の作品からはまったく得られない異様なるものがきらきらと横溢している。彼でなければ書けない、という個人的色彩が非常に強い作品である。

高橋和巳を真似てこういいたい。

私が触れたもの、触れえずに終わるであろうののうちで、本質的なものは何であるか。私であるということは、一体何であるのか。

こう問うて、「捨子物語」は始まる。私もまた同じようにして、作品を書き始めたいと願っているのである。
2004-12-14 22:41:30