今日は休日。いろいろ本を読んだりもしたが、疲れてしまってここに書き込むゆとりがない。

 もともと書きたいことがたくさんあるわけでないし、ブログを始めたからと言って、急に環境が変わる訳でもない。のんびりだらだらやっていこうと思う。

 とりあえず最近読んだ本でも羅列しておこう。

 「ゲーム理論を読みとく」

 ゲーム理論を批判的に概観する本。「ゲーム理論」という名前は良く聞くが、今一つわからないので購入してみた。意外なことに、ゲーム理論を批判的に扱う本だった。読んでいるうちに、自分の中のゲーム理論への過大な期待がなくなっていくのがわかった。だから、これ以上ゲーム理論に深入りすることはないだろう。

 「リンカーンのDNA1」

 法律と遺伝学の二つを専門にしている学者の本。全く異なる分野が、どのように重なるのか?「裁判で使われるDNA鑑定とはどのようなものか」とか「同性愛は遺伝的に決まっているのか」など、科学捜査や、テクノロジーがもたらす難しい倫理的問題など一見かけ離れた遺伝学と法律学がストレートに関連しているのが興味深い。

 図書館で第一巻を借りたのだが、第二巻が他の人に貸し出し中だった。今日一巻を返し、第二巻を借りてきた。楽しみである。

 「知られざるリンカーン」 

 「道は開ける」「人を動かす」というロングセラーの自己啓発書の著者、デール・カーネギーの書いたアブラハム・リンカーンの伝記。奥付を見ると、1969年の発行。それほど古いにもかかわらず図書館に残っていたのはすごい。利用者がある程度いるということなのだろうか?

 カーネギーの本はいつもそうだが、この本も読みやすい文章である。ただし、忙しい現代人が気軽に読める本を目指して書かれているため、省略されている事実も結構多そうだ。本格的にリンカーンを知りたい人は、この後何冊か探す必要があると思う。

「新ネットワーク思考」

 これはネットワークビジネスの宣伝の本ではない。高圧電線のネットワーク、インターネット、人間関係のネットワーク、エイズなどの病気が感染していく性的ネットワーク、共演した映画を媒介にしたハリウッドの俳優たちのネットワーク、細胞間の分子のネットワークなどを扱っている。

 これらのネットワークは「ネットワーク」という言葉以外は共通点がほとんどないように思える。だが、これらのネットワークを注意深く観察すると、ある厳密な数学的法則に従っていることがわかってきた。

 しかし、行き過ぎた類推に基づいたビジョンを派手にぶち上げるような粗雑な疑似科学の本ではない。この本きちんとした科学者による本であるので、現時点でわかっていることだけをきちんと述べている。

 数学が得意な人には物足りないくらい、数式を少なくして平易に書かれている。書かれているが、それでもちょっとうまく理解できないところが僕にはあった。それは主に数学的素養(或いは数学的なイメージ喚起力)が僕に足りないからだろう。

 ネットワークビジネスについては全く触れられていない。だが、よく読めば、ネットワークビジネスがなぜ爆発的に流行しない理由が推測できる。この本を読んだ人はネットワークビジネスに手を出そうとは思わなくなるだろう。

 「私は誰、どこから来たの?」

 これもまた、遺伝子をテーマにした本であるが、実に面白かった。著者はイタリアの遺伝人類学者である。彼は日本の木村資生博士の友人でもある。

 分子進化によって、人類の発生と拡大をどう調べるのかという話が面白い。バスク語や言語の系統にも、分子遺伝学と似た方法で、調べられるというのが私には新しい発見だった。

 また、一般の言語学者はまともに扱わない「言語の単一の起源」についても、肯定的に評価しているのが新鮮だった。なんでも、独自に遺伝的な分析を行った著者の人類の伝播の仮説と、ロシアの学者が行ったノストラ語仮説(人類の言葉の起源を求めてノストラ語という仮想の言語にたどり着いた)が、かなり一致するというのだ。興味深い話であるが、信憑性は薄い。

 素人の私には評価できないが、言語学者たちは「言語の単一起源を問うこと」自体を不毛だとして排除することを、もうやめた方がいいと感じたことは事実である。

 テクノロジーが足りない時代では、言語の単一起源を論じることは不正確でにらならざるを得ず、結局水掛け論になり、トンでも学説の温床になったであろうことは想像がつく。だが、次第に思いもよらないところからテクノロジーが使えるようになって来たのだから、もう少し寛容になって、積極的に他の人類学の知見を活用してみたらどうだろう。と素人考えで思われたのである。

 同じ感想を、リンカーンのDNAにも感じた。人間の知能や性格について、遺伝が決定するという優生学アメリカで断種法、その影響でナチス優生学的人種差別につながった。いまだに黒人と白人の違いを遺伝で説明したがる人たちが絶えない。それに対して、遺伝よりも環境のほうが人間の知能や性格には影響する、と唱えてきた人たちがいた。

 しかし、今のレベルで言えば、とうてい昔のレベルの遺伝学では、人間の性格や知能の遺伝による影響をあれこれ語ることができっこないのである。できっこないところで語ろうとするから、差別の温床になってしまった。逆に言えば人間は遺伝で決まらない、決まるべきでない、という考えも再考を要する時代になってきた。

 それは今までは、優生学が暴走するのを食い止めるべき良心としての機能を果たしてきた。だが、やっと遺伝学がここまで進んできた以上、ファンダメンタルに人間は遺伝ではなく環境で決まると決め付けて、遺伝と人間の関連を調べること自体に反対することは、時代遅れだろう。


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 脳や遺伝子を調べるときになんか変な感じがするのは、この我々が住んでいる世界像を左右するものを、我々の世界像の中でいじくっているからだろう。

 この本はこれこれこういう本である、ということを、その本自体が語っているときの、うさんくささ。これは夢である、という夢を見ている、という論理的なねじれ。

 細部は異なれど、ものすごく広い意味で自己言及的であり、使いたくない表現だが、ゲーデル的でもある。自己言及という言葉だけでは、含意しきれないものがあるので、どうしてもゲーデル的と言ってしまうが、数学の不完全性定理は僕の言いたいことのきわめて特殊なケースであり、本来は、われわれの世界の成り立ちにきわめて根本的なパターンなのだと思う。

アメリカの文化のある部分が、すごくそういうものを今、既に問題として扱っている。アメリカの文化だけではなく、テクノロジーがわれわれをそういうものに直面させているのだ。それを見ないで、クローンとか遺伝子治療とか、ごく個別の問題だけを扱ってもむなしい。

 グレッグ・イーガンの小説は、すべてこのテーマ、感覚に基づいている。ディックが素朴に、この問題にダイレクトに取り組み続けたように、イーガンはイーガンなりに取り組んでいる。

 追記 フィリップ・K・ディックに、このテーマをダイレクトに扱った作品があった。主人公は自分がロボットであることを知る。そして自分の全知覚が、体内にあるテープを読み取るヘッドによって入力されていることを知る。だから、一定の速度で動いているテープに穴を開けると、しばらくしてヘッドがそれを読み取ると現実がその部分だけ変化する。
 そして主人公は自分のテープをちょん切ろうとする。つまり、一切の情報のインプットをなくし、自殺しようといのだが、何かどこか論理的におかしい気がする。おかしい気がするが、どうおかしいかがわからない。

 人間の自殺と何がどう違うのだろうか?

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初出04・12・12。 改稿05・4・15