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at 2004 12/11 08:16 編集

以前「ここがヘンだよ日本人」というテレビ番組で、中国人の男性が、「アメリカでは強い企業や圧力団体が、議会に影響力を持っている。銃の規制が出来ないのも、それが理由だ。アメリカの民主主義はその程度のものだ。」

という趣旨の発言をしていた。要するに、強いものが幅を利かせているのがアメリカの民主主義だ、というわけである。

なるほどな、と思っていたが、グレッグ・イーガンの「万物理論」というという小説を読んでいたら、民主主義はスローモーション化された戦争状態である。という表現が出てきた。

そう考えれば、アメリカの状態は肯定はできなくても理解できるものになる。そして中国のように、ごくごく上層部の幹部の中だけで闘争が行われるよりも、議会や政党内で闘争が行われるほうが、中国よりは民意を反映していると思った。

しかし、そうすると常に絶対的少数の弱者はどうしたらいいのか、という観点がでてくる。一般に弱者は多数なので、民主主義は弱者に有利だと思うが、障害者や同性愛者、少数民族など、常に少数にとどまるような弱者も必ず発生する。

通常の戦争ならば、そういう連中はすぐ撲滅されるが、民主主義ならば、撲滅される前に、異なる弱者同士連帯できるし、言論活動で多数派の支持を得ることも出来る。

しかし、必ずそううまくいくとは限らないことは明白なので、民主主義が最良の手段であるというのは、もちろんまやかしなのである。

もう一つは情報テクノロジーに民主主義が強い影響を受ける、ということである。ギリシャでは成人男性が全員が選挙権を持ち、何らかの役職を交代で務めた。当然向いてない人も役職につくわけで、段々と政治的に才能のある人が、そういうぼんくらな人の影にいて、実質的な支配をするようになった。「僭主」である。

アメリカや日本のような規模では、到底都市国家のような制度では無理である。どうしても代表を選出して、代表に代理して意見を戦わせてもらう必要があるが、そもそもどのような問題にわれわれが直面していて、自分がどういう立場になるか、という情報自体が、マスメディアによって規定されてしまう。

ラジオというマスメディアが発達してきたことで、ドイツのナチスなどの独裁制が成立できたという要素は強いと思う。みんなが同じようなことを考えるには、みんなに同じような情報を与える必要がある。

日本もまた、非常に限定された情報を与えられ続けてきて、第二次世界大戦にいたったという説があって、そういう本が店頭に並んでいる。

恐ろしいのは、基本的な構造は実は今も変わっておらず、日本の報道は非常に世界情勢を限定して報道しているのだ、という。

確かに、インターネットが出来る前は、自分で英語新聞を取るか何かしないと海外のことを自分で調べるということは難しい。

そして言うまでもなく、圧倒的多数の日本人は英字新聞を読むほどの英語能力がない。別に直ちに恥じることではないが、事実として、日本語によるメディアだけの影響を受け続けることになる。

最近ようやくインターネットというものが出来て、海外のことを調べようとすれば、かなりのことが調べられるようになった。しかし、相変わらず「マス」のメディアは変わらない。

もちろん、日本人の多数が、インターネットを使えるようになったところで、英語が出来るようになったわけではないからである。もう一つ言えば、日本の報道がおかしいなあ、ということを実感していないからでもある。

私はマスメディアが単一の誰かの意思によってコントロールされているとは思わないが、(大本営発表のように)結果として、無知な視聴者に受ける放送を目指していくと、無知な視聴者を再生産していくような放送がずっと続けられる、ということがあると思う。


北朝鮮が拉致していたこと対して、多くの日本人が憤りを示していると思うが、私から言わせれば、北朝鮮を批判する前に自分を批判するべきなのである。

北朝鮮がいきなり拉致の事実を認めたところから、話が始まったわけではない。大体の事実は既に何十年も前から明らかになっていた。私は家族から何回もそういう話を聞いたことがある。私の家族はテレビでその知識を得たのだから、マスコミも何回か触れていたのだ。しかし、今ひとつ展開がないものだから、拉致は放送されなくなっていた、ということに過ぎない。

またマスコミが単一の意志によって支配されているとは思わないが、複数の強い影響力を持った人たちがあちこちで影響を与えているのは事実である。

影響力の強い事務所にいる芸能人の不祥事は配慮されて報道される。○○メンバーとか、○○司会者といった不自然な名称で呼ばれるのは、大体容疑者という表現を使わないでくれ、という事務所の圧力である。

大体企業から金をもらってやっている報道が、社会の不正をどこまで本気で追求できるか、というと限界があるだろう。

別に世間の多くの人はそれでいいのかもしれない。それじゃ嫌だ、という人もいるだろう。

僕は社会情勢にはあまり興味がないが、日本の科学ニュースがかなりお粗末なことに苛立ちを覚えている。ポピュラーサイエンスというか、専門的な知識はないが、科学に興味があるという人のための媒体が限られているような気がしてならない。

じゃあどうするか、壁を越えるしかないと思う。私が思うに、語学の壁こそが、最たる馬鹿の壁だと思う。もちろん日本語人抱けば馬鹿なのではなく、多くのアメリカ人は英語という馬鹿の壁に囲まれている。

われわれは言語の壁でセグメントされているのだ。
じゃあどうするか。