心の居着きをなくすこと。なくすことは難しくてもそれを自覚すること。 12・9

at 2004 12/09 22:16 編集

元来あまり歴史とか社会関係には強い関心を抱かずに生きてきたので、基本的な知識に乏しい。

アメリカがなぜ市民から銃を手放すことに抵抗感を示すのか、ということがいまいちわからなかった。

友人のペンギンさんに薦められて小室直樹氏の「痛快!憲法学」という本を読み、アメリカの建国精神である、ジョン・ロックの思想が、市民の革命を起こす権利を保障しているので云々という話もなるほどとは思ったが、あくまで私個人の中の感覚としてはぴんとこなかった。

開拓時代を経て形成された彼らの社会は、銃に頼らないと不安なのかな、と漠然と考えていた。

以前映画で「ポストマン」というのをテレビで見たことがある。途中から見たので話がよくわからなかったのだが、何かで文明が崩壊してしまったアメリカを舞台にした話である。「北斗の拳」とか「マッドマックス2」の世界なのである。

各地に残された文明の名残を独占した武装集団が、「コロニスト」となのり、悪の限りを尽くしているのだ。主人公は、「ベツレヘム将軍」(ものすごい名前で、思わず笑ってしまったが、何か深い意味でもあるネーミングなのだろうか。)率いる悪の軍団につかまりそこから脱走。途中で郵便配達の車を見つけ、そこから制服と郵便物を失敬する。どうしてかというと、各地に残っているコミュニティーに「アメリカ政府は再び活動しだした。私は政府に任命された郵便配達だ。とうそを言って食べ物を恵んでもらおう、という魂胆なのである。

まあ今はそれ以上のことはどうでもよくって、この話を見て、ああ、アメリカというのは本当に広いから、油断すると「コロニスト」のように、強い勢力が出来れば、そこが国みたいになっちゃうんだな。ということを感じたのである。

別にそれでもいいじゃないか、という気がするのだが、何しろコロニストは、「ベツレヘム将軍」率いる悪の軍団である。強いものが弱いものをいじめてなんぼの世界である。そういうものを調停して正しい生活を送れるようにする国家は、「アメリカ合衆国」だよね?ということを、この映画はプロパガンダしているのである。

この映画だけじゃなくて、危機的状況になったとき、州兵とか銃好きの同好会みたいなものがその地域の権力を握って、地域が孤立してしまう、という場面はアメリカ映画を見ているとざらにあるような気がする。そしてそれは必ず「アメリカ」よりは野蛮な集団に描かれている。

ここまでの話だと、日本人の僕の感覚だと、「油断すると分裂してしまうなら、銃など民間に持たせずに、アメリカだけの力を強くすればいいではないか。」という気がしてくる。そして実際、そのほうが社会の住み心地としてはいいであろう。日本の治安は悪化しているとよく言われるが、それでも銃がアメリカほど普及していないせいでだいぶ危険度は低いままである。

そうではない。よく言われるように、悪い連中から自分を守るためには、自分も武装できなくてはいけないのである。アメリカなんて、都市部を離れてしまえば、具体的な町とか村というコミュニティーに比べればはるかに抽象的な存在になるだろう。

アメリカがいつでもどこでもわれわれを保護してくれることはないし、そんなことは不可能だ。仮にそうしようとしたら、ものすごい緊密な支配体制を受け入れなくてはいけないだろう。

アメリカ合衆国はあくまで抽象的なものだから、それに全幅の信頼など置けないのだ。(多分)

逆に言えば、だからこそ、選挙制度を通じて、アメリカを維持しなくてはという感覚につながるだろう。その抽象性は、常にきわどい均衡点を保たなくてはいけない。

日本のようにびっしりときわめて整備された戸籍を持っているわけではないアメリカは、国家に対する感覚が根本的に違っているのだろう。

デーブ・スペクターはアメリカが銃を持つ権利を保障していることについて、それは革命を保障している権利であり、それを持たされないで平気なのは、日本が革命を経験したことがない、民主主義を知らない国だからだ、ということを発言していた。

刀狩とか、政府の言いなりになっていると(よく外人の癖に知っていると思ったが)、彼は日本のことを言っていた。アメリカを日本人のほとんどが批判していたので、彼も感情的になっていたと思うのだが、一理ある説だと思った。

国家がきちんとしないと世の中が乱れる、という危機感は当然日本にも強くあると思うが、アメリカの危機感と何か質が違うように感じるのである。

日本は国家と社会の概念があまりはっきり区別されていないように思える。北海道だけ独立して国家になりうるとか、そういう風にはあまり考えない。

その辺の感覚が日本の民主主義のうまくいかなさにもつながっている気がする。

日本は戦争に負けたのだが、国は滅びたという感じがしていない。(社会は滅びなくても、国はいくらでも滅びうる。はずであるが。)

日本という社会も日本という国家もちょっと名前と仕組みを変えて生き残っているのだ、という感じがわれわれにはしているのである。

多分そのつなぎ目をぼかしているのが、天皇制だと思うのだが、どうだろうか。

社会と国家ははっきりと別物である面もあるが、すべて違うわけではない。それが、アメリカでは建国の精神、自由と民主主義なのであり、日本は天皇制を一つの要素にした、社会の機能が国家であるという感覚だと思う。

そういうアメリカから見ると、日本がいくら頑張っても民主主義をアメリカ風に生かすことが出来ないのは当然なのである。

当然なのだが、それでもアメリカ流の民主主義は、本来は世界中に広まっていくべきだと信じている。そこにアメリカ人の矛盾があると思う。