12/5「心の居着き」

at 2004 12/05 16:21 編集

やはり仕事に向いていないと思う。いわゆる社会生活に必要とされることが、うまくできないのだ。

それでも、必死に頑張れば、高い評価は受けなくても、どうにか社会の隅っこに生きていけるかもしれない。しかし、その努力は自分の人生にとって、端的に無駄ではないのか、という気がしてならない。

具体的に言えば、何かをきちんとやろうとしても、必ず何かうまく行かないのである。トンネル効果のように、少しだけミスをしてしまう。これは、心理的に何かあるのではないかという気もしてくる。

筒井康隆のエッセイで、どうしても電車で傘を忘れてしまう人がいる、という話があった。あまりにも忘れてしまうので、絶対に忘れない、忘れない、というかさを握り締めていたら、今度はかばんを忘れてしまったという。

考えるまでもなく、傘は普段持ち歩かないからうっかり忘れるということは大いにあることだ。しかし、それに気をとられて、普段持ち歩くかばんを忘れるということは、論理的には可能でも、常識的に言ってまずないことだ。

要するに、無意識のうちに何かを必ず忘れなくてはいけないような働きがある、という趣旨のエッセイであった。

その説が正しいかどうか、私には判断することが出来ないが、ひょっとして似た理由で、自分は社会的な仕事をうまく出来ないのではないか、という気がするのである。

うまくやろうとすればするほど、その反作用が心のどこからかやってくるような気がするのである。

妙な言い方だが、物事がきちんと落着し、成就している状態になることが、不安であるのだ。「落ち着かない状態でないと、落ち着かないのだ。」

まあ、冗談のように受け取られるかもしれないが、結構本気である。

こういう心理的なものは、僕個人のものではなく、結構多くの人にもあるようなものだと思うので、いろいろ調べてみたい気がする。

しかし、少し内容もレベルも違うが、僕に似た人々というのは結構いる気がする。

「幸せだと落ち着かない」「不幸であると落ち着く」というような人々。ある種のギャンブル狂や、アル中みたいな人々は、そういうタイプなのではないか。

いったんアル中になってしまえば、それはもう病気だから仕方ないが、覚せい剤などと違い、アル中になるまでのプロセスは結構時間がかかる。肉体的に依存し始める前に、心理的に依存している時期があるはずだ。自分をだめな状況に追い込まないと安心できない、という心理が働いているのではないか。

僕の場合、社会的な行動をきちんとやって成功することを恐れているのかもしれない。しかも、それらは大したレベルではなく、ちょっと言い聞かせれば高校生のアルバイトでもさっさとこなせるようなことだ。(だからこそくよくよ悩んでいるのである。)最初から失敗ばかりすれば、誰も社会から期待されなくなり、楽になる。だから、うまくこなさずにだめと思われたほうが得だ、という心理が働いているのかもしれない。

どこか、たとえば幼児期に身につけた戦略(人から期待されないように努力する)を手放さずにいる自分がいる。しかし内容はさまざまであれ、こういったことは自分だけではなく、いろんな人が既に与えられてしまった条件付けと悪戦苦闘しながら生きているはずなので、深く悩みすぎず、淡々と生活の向上を図るほうがいいだろう。

もう一つ、悩んでいることがある。
ものすごく、怒りっぽいのである。あまりに怒るので、自分でコントロールするすべをどうにか身につけたので、人前で怒ることはほとんどなくなった。せいぜい不機嫌になるくらいである。

しかし、それは本質的な解決ではないような気がしてきた。私が怒るのは、多くは社会情勢のニュースを見たときである。あまりの不合理、無駄、あいまいさに激越な怒りがこみ上げてくるのである。油断すると、「噂の東京マガジン」のような、社会の不合理を追及する番組を見てしまうくらいなのだ。ニュースの内容もまた不快なら、それへのコメンテーターのコメントの多くもまた非常に不愉快である。

自分と違う意見の人に不愉快になることも多いが、自分とは違う意見でも、きちんとその人なりの背景を持った人物ならば、賛成はしなくても激越な怒りは生じない。一番嫌なのは、短時間のコメント用の時間ではうまく誰も反論できないような、それでいてある傾向を持った発言をするようなコメンテーターである。

持って回った言い方で申し訳ないが、なんといったらいいのか、無意識にか意識的にか、気がつくと常に多数派にいる人、というのがいると思う。そういう人の意見が嫌なのである。マスコミである以上、そういう人がいるのは当たり前だとわかっているから、最近は出来るだけ深く考えないようにしているのだが。

そうそう、この日記でも以前、不必要なまでに血液型判断を無条件で信じている人を心から罵倒してしまったが、考えてみれば、別にたかが血液型判断という「占い」なのだ。血圧を上げてまで、罵倒する意味はない。少なくともそれで血液型判断が亡くなるわけでなし、自分ですっきりするわけでもない。(私は自分で能動的に本を買ったりして占いを読んだり、調べたりすることは別にぜんぜん嫌いでなくて、むしろ会話のねたや、ちょっとした面白さを感じるくらいである。嫌なのは、誰がどんな根拠で選んだのか知らないが、わけのわからない運勢を、テレビの朝のニュースと一緒に放映する無神経さである。)

まったく、気にし始めれば、世の中気に食わないことだらけである。立花隆とかは何がどうえらくてあんなに有名なのか。

しかしこういう怒りも、本当はそれそのものに向けるべきでない怒りのエネルギーを換わりにぶつけているだけではないか、という気がしてきた。

無知蒙昧さを助長するようなマスコミの風潮を不快に思い、怒りを感じてもいいと思う。しかしそれに、書いていてかっかかっかしてくるほどまでに怒りを覚えるのは、行き過ぎではないか、と思う。

何か自分の中に怒りのエネルギーがあって、それがちょっとした怒りの捌け口に殺到している感じだ。本当は、ぶつけたい対象が別にいて、しかしぶつけていない、ということなのかもしれない。

それは自分自身への不満や、自分を認めない社会への苛立ちなのかもしれない。自分に理系の知識があれば、ユナ・ボマーみたいになるのかもしれないが、比較的若いのでそこまでの怒りはたまっていないのだろう。

前も書いたが、偉大なアメリカの哲学者パースの本を読むと、パースが社会的な地位を失って不遇の生活を強いられたために、自分自身の興味に集中できたというプラスもあるだろうが、結局満たされない自尊心のせいで、かなり性格が歪んでしまっていることがわかる。それは人の意見を聞かない、という形で彼にとって悪影響を与えたに違いない。

ましては平々凡々たるディレッタントに過ぎない青年である自分が、自尊心を満たせないで被るであろう人格のゆがみは、かなり大きいものになるだろう。実際、自分の人生を振り返っても、実際に実力があるなしに関わらず、社会から評価されない人は、何らかの悪影響を受けている場合が大きかった。

一見不遇なのに、そういう悪影響がない人は、家族や狭いグループの中では、評価されているのだろう。

とにかく、自分の中のそういう怒りや不満に、早めに、どうにか手を打たなくてはいけない。それには、語学でもいいから、とにかくこれは、という社会にそれなりに認められるようなものを持つことが大切だと思う。

自尊心は、人間が社会的動物として進化してきた上で獲得したほぼ生得的な感情で、禅僧でもあるまいに、人格の陶冶ごときでどうにもなるものではない。人格を練っても、性欲そのものが消滅しないのと同じことで、自尊心などどうでもいいと理性で考えたところで、自尊心を満たしたい心は理性の監視をかいくぐって怒りをはぐくみ、理性の進む方向を少しづつゆがめてしまう。

こんな単純なことを今改めて感じている。

怒っていると何がだめか。不安になっていると何がだめか。それは「心がいついてしまっている」からである。居つくというのは武道などでつかわれる言葉であり、ごくごく大雑把な意味でいえば、動きがそこで止まってしまっている、ということである。

難しいもので、勝とう、勝とういう心が、かえって居つきにつながり、相手に負ける試合というのも多い。それはどんな格闘技を見ていてもわかることだ。