十月十二日?

at 2004 10/12 22:13 編集

あれから元気があまっているので、今日書いた日記の補足など。

今日読み終えたペンギンリーダーズのタイトルを書き忘れていた。「go−between」である。

ネビル・シュートの「渚にて」のペンギンリーダーズはだいぶ前に読んだもの。

ゲーデルエッシャー・バッハ」に、ルイス・キャロルの詩を英語、フランス語、ドイツ語、日本語に訳したものが載っており、翻訳についてかなり考察されている。

フランス語の知識がないのでわからないのだが、フランス語に英語を訳すと、どうしても時制を変えて訳したほうが自然なものがあるという。

ドイツ語と英語も、かなり時制に関する感覚が違うようだ。時制に厳しい英語と、あいまいな日本語で、日本語は非論理的だ見たいな言い方を散見するが、同じ印欧語の中でも、時制に対する捉え方が違うということはあまり指摘されない。

ゲーデルエッシャー・バッハ」の著者は、フランス語に英語を訳すときに時制を変えたほうが自然であるような表現は、英語で表現したからその時制なのであって、本当はどの時制で表現するのが一番適切なのか、にわかには決定できないと論じている。

日本語の小説などでも、細かく見ると現在時制と過去時制を入り混ぜているのがむしろ普通である。

自分が小説を書こうとしたことがあるからわかるのだが、過去形だけで統一すると、語尾が「・・・た」ばかりになって単調になるということだけではなく、いわく言いがたい感覚で、現在時制を使いたくなるのである。

われわれは英語をどうしても基準に考えるから。現在形、現在進行形、過去形、過去完了、・・・というやたら細かい英語の時制が普通と思ってしまいがちだが、もっと相対的に考えなければいけないのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

ディレッタンティズムについて漠然と考えている。わが人生をいかに経営するかというつまらない必然性を感じているからだが、同時に、どう楽しむか、という快楽主義の観点からでもある。

言い方がややこしいかもしれない。言い換えてみれば、自分がいろいろ興味を持っている哲学、文学において、どう考えてもアマチュアレベル以上のものがなく、生きていく上で職業にしていくには低レベル過ぎる、という問題。もう一つは、当然高いレベルに至れば至るほど、趣味としての哲学と文学は快楽をもたらすはずであるから、いかにしてより快楽を得るか、という問題。

これらの問題は、同じことの、現実的、世俗的側面と、理念的、趣味的側面をそれぞれ反映しているに過ぎない。

はっきり言って、カーネギー(人間関係)も、ドラッカー(職業人としてのあり方)も、これらの問題にくれべらば、余技でしかない。こういうと、人は極端な言い方に感じるかもしれないが、私は、そういったことがらは、本当はどうでもいいと思っているのだ。私に重要なのは、面白い小説や映画であり、哲学なのである。

それらについて、自分なりに考えたり、勉強したりして、だんだんとわかってきたことがある。それは、自分がそれらに対して才能を持ち合わせていないこと。しかし、それらが本当に好きであり、適性がないわけではないこと。歴史に残るレベルには行かないにしても、本当はもっともっと上を目指せること。そしてそれこそが本当に自分のやりたいことであるということ。

ある、いくつかの閾値を超える必要があること。今は、その周辺でうろうろしているに過ぎない。そして、今出来るレベルのことは大体やってしまって、さぼり気味であること。閾値を超えるには、それなりの集中が必要であること。閾値を超えても、それは一つの始まりであり、さらに越えるべき閾値が無数にあること。それを超えるには、単に語学や哲学を勉強するだけでは足りないこと。そこで、本気で自分に深く潜る必要があること。それをすることをためらうべきではないこと。だが、まだそれには早い気もしている。準備が出来ていない成果、年をとって考え方が社会化して、哲学的感性が風化してしまったからか。それはわからない。