文体論的思考。三島由紀夫の自決へ

at 2004 06/25 22:34 編集

今日は鍛錬メニューを一通りこなす。

昨日、おとといと東京地方はかなり暑く、私もあまりぐっすりと眠れなかった。寝る時間が遅くなってしまったこともある。といっても12時前には就寝し、朝の七時に起きるのだから、普通の人に比べれば長く眠っているはずで、睡眠不足になるはずがないと思っていたが、肩こり、軽い頭痛に近いものを仕事中に感じる。目も少し痛く、全体的に疲労が感じられた。ただこれは睡眠不足からくるであろう症状であり、それほど深刻に考える必要ないと思っていると、午後になってくると体調もよくなってきた。その代わりに、背中の痛みが激しくなる。風邪を引いたときの筋肉痛とは違い、背中のある一点がしびれるように痛むのである。おそらく体のゆがみが背骨に現れ、その周辺の神経が刺激されているのではないか。

指で痛いところを探ってみると、思っていたところよりもはるかに外側にあり、ほとんど肋骨の痛みであった。左右ともほとんど同じところに圧痛点があるが、右の痺れのほうが強い。指で触るとしこりやコリはあまり感じられない。そもそも筋肉がほとんどない部位であるので不思議だ。それに呼応して、太股の一部や肋骨と腹筋の接しているところにも時折似ている痺れが走る。

そこをもむと一時的に足の血行がよくなるような気もするし、調子が悪くなると痛む部位なので、いつか東洋医学的な意味を調べてみたいと思う。

昨日のあたりから、背骨の硬さが気になっていた。毎日体操をしていると、こういうことが自覚できて良い。本当はそういうことなしに自覚できればいいのだが、到底そういったレベルにはまだまだだ。背骨が硬くなるというのは具体的に左右のねじれる範囲が狭まるということだ。運動をしなかったとか、病気になったわけではなく、急に体の柔軟性が落ちるときが確かにある。僕の場合はその症状が今は肩の筋肉痛と、背中の圧痛点の発生に至った。肩の筋肉痛は、昨日行った上半身の筋トレの結果か、肩こりなのか、それすらも区別がつかない。

こんな基本的なことがわからないでは、そのうち体を壊してしまうに違いない。

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昨日書いた「文体論的」という視点は、自分の中にはっきりあるのだが、うまくて意識化できない。こういうのがそうだ、と実例はいくつかあげることはできるのだが。

要するに、小説を読むときにその内容ではなく、その小説を可能にしている日本語のあり方のほうに注目すること。
身体論的に応用すれば、スポーツや武道の具体的な原理に注目するのではなく、それを可能にする身体用法の方に注目すること。

古武術においてはそれはナンバ歩きと呼ばれるものがそうだろうし、日本語に苦心して英語などの論理展開をはっきりさせる語法を導入した文体に注目することだろう。

身体も、日本語も、西洋流のグローバルスタンダードを導入(意識的にであれ無自覚二でアレ)することで、はるかに自由で普遍性の大きい文体を獲得するに至った。

同時にそれは、一日何十キロも走ったという飛脚の持つ、高度に専門的な身体用法にアクセスする可能性を失ったということであり、三島由紀夫が死ぬ前のインタビューで言ったように、日本語の本当の伝統を受け継いでいる日本人がいなくなるということでもある。

今思いついたが、音楽においても似たことがいえるのではないか。声をつぶして、独特の専門性を持つ民謡の世界が、西洋の音階を導入し、ユニバーサルで数学的な基礎に基づいたとしても、それは同時に民謡や邦楽を理解する感性を剥奪された、ということでもある。

そして思うのは、音楽の世界において、ユニバーサルに開かれた西洋音楽の空間にアクセスすることが可能になったのに、第一線で活躍する音楽家は非常にまれであるということ。

クラッシック音楽だけでなく、大衆音楽に目を向ければ、日本に流行る音楽は、洋楽のぱくりでもありながら、どこか日本の匂いのする奇妙なものである。

スポーツの世界においても、中途半端な感じがする。

文体論的に言えば、こう考えることができる。音楽、身体、言語、いずれにおいても、ユニバーサルで開かれているという西洋のスタンダードは、開かれているなりにやはり固有の傾きを持つ文化空間であり、日本人がそれを取り入れたとしても、完全にそれを受容することは難しいのだろう。

ここで我々が置かれている中途半端な位置を再確認することができる。我々の身体の用法、結局それでは体格の優れた西洋人にはなかなかかなわないし、言語においても、一定の隔たりがあるのだ。

ではどうするか。一つは我々の持っていた文体を取り戻そうとする試みである。もう一つは徹底して、西洋流を越えたユニバーサルな空間を模索するということである。

と、いきなりこういっても何を言っているのかわかりづらいと思うから、明日にでも続きを書こうと思う。

とりあえずは三島由紀夫の自決を今考えている。

一気にここまで書いた。スピッツの歌のおかげで、高揚できた世の中、思い込みの激しい馬鹿のほうが楽しいといういい実例である。