ろばの読書日記加賀野井秀一著「日本語は進化する」−文体論的回心

at 2004 06/24 19:23 編集

今日は図書館で「日本語は進化する」加賀野井秀一 を借りてきて早速読んでみた。この本が私に与えた影響を一言で表現するならば「文体論的回心」といえるだろう。

日本語というものが、今我々が使っているようなものになったのは、きわめて最近のことに過ぎない。

それまでの日本語で物事を考えてみるときは定型化した漢文の言い回しの「文体」で考えざるを得なかった。あるいは、娯楽的な読み物も、七五調を基本にした戯作調にとらわれ、主人公の心理や、その時おきたことをそのように描写するということができなかった。

いろんな人が少しづつ大変な努力をして、語彙を増やし、英語などの影響を受けて論理関係をはっきりと表現できるように日本語を鍛えていった。そしてそもそもそれが可能だったのは、漢学、蘭学など、日本が他言語の影響を受けながら発展してきた伝統があるからである。

そういったことを説明しながら、最後に、日本語は非論理的であるという通説に対して、日本語はすでに十分判断的になりうる実力を持っており、日本人が非論理的であるとするならば、それは別の原因によると主張する。

詳しいことはもちろん本書を読んでいただくのが一番だが、私がこの本から得たものは個々の論点ではなく、道具としての言語に我々がここまで深く制約を受けるのか、我々が用いる言語のあり方「文体」が、このように重要でありながら、最も身近なものであるがゆえに気づかれないこと、そのことに気づいたのである。

そしてその気づきを本書に出てきた言葉を借りて、「文体論的回心」と呼んでみた。

本書では頻繁に思考の身体としての言語という比喩が用いられている。手前勝手な私見を述べれば、似たことが日本の実際の身体の「文体」にも言えるのである。

甲野善紀氏の著作などを読むと、江戸期の人間は現在のように右足を出すときに左手を出すような歩き方ではなく、同じ側の手と足を出すか、手を動かさない動きであったという。

もちろん侍、町人、農民と職業によって、歩き方、体の用い方も異なっており、一くくりにはできないのだが、基本となる原理として、そういう独特の歩き方があったという。

そういった独特の体の文体は、明治以降、国民皆兵政策によって、だんだんと強制されていく。というのは、国民の圧倒的多数を占める農民は、軍隊式の行進や突撃行動に必要な走るということがうまくできなかったし、何より集団行動が統一してできなかったからだ。

生活の変化と、国の学校、軍隊式教育によって、身体の文体が、言語の文体と同じように基本的に変化したのである。

問題は、その変化が余り根本的な部分に起きたために、変化が変化として意識されなかったことにある。

武術における身体運用に、西洋式の文体が持ち込まれ、術理が不明瞭になっていき、ひどく改変されてしまったりということも起こる。

甲野氏はもちろん、古武術を継承されているかたがたは、もちろん古流の身体用法を意識されておられるのだが。

しかし、ドイツなどからの影響を受けた軍隊式の直立の姿勢がいい姿勢とされると、剣道などにもそれが無自覚に前提されていった。それまでの剣術家の姿勢は決して背筋をピンと伸ばしたりするものではなかったのだ。

話をまとめてみると、職業や身分制の枠をはずした西洋流の身体の文体が導入されたことは、日本語の文体の変化と平行して考えることができる。

日本語は、階級や書き言葉、話し言葉によってがひどく分離し、硬直化していた。
それが翻訳などを通じて柔軟で論理が扱いやすく変化し、身分にあまりとらわれず、言文一致が成功したために教育が一部のエリートに独占されることもなくなった。文体論的変化が、日本語使用者の可能性を拡大したのである。

同じように、身体の用法もまた、階級や職業から切り離されたプレーンな西洋風に次第に移し変えられていった。そのことにより、農民も町人も「国民」として軍隊になることができるようになったし、日常の新身体用法と、スポーツなどの非日常の身体用法にも連続性ができた。農民などはうまく走ることができなかったらしい。走ること訓練した飛脚など、それぞれの専門領域でのみ非日常的な身体動作(走ったり、剣を振ったり)が可能であった。それが西洋流の身体用法が導入されると、歩くことと走ることの原理が同一になり、誰でも一応はさまざまなスポーツや複雑な動作ができるようになった。(身体用法の言文一致)

そのほかいくらでも、身体用法と日本語の変化の平行性について語ることができるが、今は止めておく。

文体論的な視点(故意に適応範囲を広げて使っている)でものを考えるということ。言ってしまえばなんでもないようだが、こういう視点の変化こそが大きな変化なのだ。知識は忘れることがあるが、視点の変化、視点の増加は減ることがない。

情報社会における規格のあり方など、「文体論的視点」から考え直してみるべきものがあるかもしれない。