ろばの日記 窪塚自殺未遂、不安の解消の二つのタイプ、体育と修身について

at 2004 06/06 23:05 編集

窪塚洋介氏が自宅から転落していた
ところを病院に運ばれたという
ニュースをやっていた。

事故ではなく、自殺の可能性も
あると示唆されていた。

私は以前から彼に注目していた。
明らかに大麻を賛美して、
奇妙な言動を繰り返す彼は
早晩破局を迎えるに違いないと
楽しみにしていた。

しかし自殺未遂あるいは転落事故
とは、あまりに情けなく、
楽しめない展開だ。

彼を見ているとはったりばかりで、
自分の自信のなさをオーバーな
言動によってカバーしようとしている
うちに、だんだん押さえが利かなく
なってきた人のように思える。

ある人は浪費癖、ある人は酒、
ある人は性的なもの、それぞれの
弱点に、ゆがんだ生き方が
反映されるものだ。

彼がヒステリックな言動を繰り返すことで
彼が熱情的でかっこいいと
思う若い人たちがいたからいいが、
仕事は干され、不自然な怪我をした
彼が、いつまでもカリスマを保てる
とは思えない。

誰でも自分自身に自信があるとは
限らない。特に若いときは
自信があるほうがおかしいくらいで、
なぜなら社会に出ていろんな実績を
残すのはこれからなのだから、
不安があって当然である。

不安だからこそ、一生懸命努力
したり、いろんなことを試して
失敗するということも普通のこと
ではないだろうか。

抱えている不安が大きい人ほど、
人が到達しない地点にまで到達
してしまうこともある。

野口英世とか、いい例ではないか。
しかし、そううまくいくだけではなく、
せっかく人気を獲得しても大麻賛美や、
へんてこりんな言動を繰り返して
パワーを無駄遣いしてしまったり、
取り返しのつかない失敗を
してしまったり、人生は難しいものだと
思う。

つくづく思うのは窪塚氏の子供
がかわいそうだということだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は鍛錬メニューを工夫して、
最近調子がよくないドイツ語を
最初にやってみたが、
英語を飛ばしてしまい、ドイツ語
とフランス語しかやらなかった。

とはいえ、英語漬けはやったし、
英語の本は仕事の休み時間や
電車で読めたので、それなりに成果は
あった。

仕事はいらいらすることが
今日もある。
受け止める自分を変えることが
必要とわかっていても、それは
なかなか難しいことだ。

鍛錬メニューとして身体面や
学習面ばかり重視してきたが、
本当は精神面の鍛錬も行うべき
なのかも知れない。

自己啓発ということばは
今では自信のない人が
胡散臭い本屋セミナーで不安を
紛らわす、というジャンルになっているが、本来はいい意味の言葉なはずだろう。

窪塚タイプの人が過激な行動で不安を
紛らわすのに対し、自己啓発タイプは
もっともらしい言葉を見聞きして
不安を紛らわすタイプで、
実のところ、不安にきちんと
対処できていないと思う。

武道の効用として「心身を鍛錬し」
とあるが、それは結局どういう意味
なのだろう。辛い練習に耐える
忍耐力とかそういうことなのだろうか。

それだけではないと思う。まずそこに
ヒントがあるように思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

甲野義範氏の書籍を何冊か買い求め、
そこから発展して怪しい武術や、
神秘系、空手、健康法といろんな
方向に興味が広がっている。

しかし甲野氏と違い武術をやっている
わけではない私が、甲野氏から
得たものは何か、といえば、
「体育」の存在を気づかされた、
という一点に尽きるのではないだろうか。

「体育」という言葉だが、私だけではなく
みなさんもそうだと思うが、実際には
「たいく」と発音しているのではないだろうか。

今日は「たいく」の授業がある、という
風に。「たいいくの授業」とは
なかなか発音しにくい。

だが、甲野氏の「表の体育裏の体育」
を購読して感じたことは、身体という
ものに対して自分がどのように態度を
とるかによって、さまざまな
物事に対する態度もまた大きく変化する
ということだ。

そして体を育てる。体を開発し、
発展させるという本来の意味での
「体育・たいいく」というもの
が重要ではないか、と気がついてきた。

それは甲野氏と違って西洋合理主義
だけのあり方でもいいし、神秘系でも
いい。(私は両極端はよくないと思うが)
問題は自分の体に対する態度に
気がつき、自分の体に気がつく、
ということだ。

そこから発展して思うことは、
精神面においても、たいいくのような
何かが必要なのではないか、ということだ。

昔は道徳の授業のことを「修身」
といった。身を修めること。

自分が置かれた状況を把握し、
自分がどう存在するか、
日常の言い方をすれば、「身を処するか」
それを日々どのように自己修練するべきか。

「体育」などに関心を持たなくても、
健康な人、体力がある人がいたり
するように、修身のことなど
まったく考えずとも、おのずと
その人の生き方がきちんとしている方
も、ごくまれにおられる。

だが、この年になるまで、
嫌というほど自分の欠点につき合わされ、
人に指摘され、自分で悩んできた。

そういう素質が劣悪なるものは、
意識的な努力がやはり必要だろう。

そう言う努力を何回もやってはきて、
少しはましになった部分もないことは
ない。

だが、今回思ったのは「身体」
と絡めて、そういった精神面の鍛錬は
図れないものか、というものである。

これからの課題として、とりあえず
提出だけしておくことにする。