ろばの日記

at 2004 05/26 22:11 編集

ばかげた思い付きが次々と浮かんでくる。
風邪が少しよくなると、休んでいれば
いいのに、形にしたくてまた
書き込んでいる。

ばかげた思いつきというのは、
最近哲学の本を読まなくなった
から、調子を崩したのではないか、
ということだ。

哲学に関する書籍を読んだり、
自分で文章を書いたりすると、
ずっとその日のコンディションが
よくないのだ。

体力的なものではなく、意識ではすっかり
哲学の話題など忘れているのにも
かかわらず、どこか、仕事や人間関係に
集中できないのだ。

例えていえば、何か心配事がある人
や、恋愛をしている人に近い
と思う。

一時期はそれが高じて、
読まないようにしたのだ。

その代わりに英語の勉強や
体力増強に時間を振り当てたのだ。

英語やドイツ語、ちょっとだけ
フランス語をかじってみると、
いかにそれらの言葉が似ているのか、
ということを日々痛感する。

根本的に日本語と違う発想の
それらを学習するということは
脳にそれなりの負担をかけることに
なるのだろう。

もっと若かったり、才能がある人は
別だが、もともと苦手で敬遠してきた
私には、知らず知らずのうちに
精神的な疲れがたまっていたのだろう。

では語学の勉強を減らして哲学を
読み始めればいいのか。

そのほうが楽しいし、自分の本当の
姿だという気もする。

しかし、日本語しか読めず、
翻訳だけで哲学の思考を鍛錬していく
ということに限界を感じたことが、
そもそも語学勉強を始めた理由であった。

そう考えれば、語学を入門書でいいから
思想的な書物を原書で読める
位のレベルに上げることが、遠回りな
ようで、近道だと改めて思う。

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語学を学習するの方法をいろいろ
工夫しているが、うまくいった
ためしがない。

今している方法は、少しずつ
中学校の文法を復習しながら、
英語のリーダーを読む、という方法だ。

ちょっと大きな書店に行けば、
レベル別に編集された英語の名作が
買える。辞書を引かずに、電車や
休み時間などに読む。もちろん、
今読んでいるレベルは相当簡単な
英語なので、人に言えるものでは
ないのだが。


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今月のSFマガジンを病床にて
読む。

改めて、英語圏のSF、文学の
奥深さ、積み重ねの大きさを感じる。
翻訳だけじゃ物足りない。
直接いろんな本を読みたいと思った。

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高橋和巳の捨子物語を、
好きなところだけ読み返す。

まったく独特で、個人的なものだと
感じる。こうした文学が、日本文学に
もっと影響を与えていれば、
と残念に感じる。彼が知られている作品は
当時の学生運動との連関で、政治色の
強い作品が主に思われる。

そういった運動がまったく無意味になった
現在、そういった偏向が彼本来の
資質をゆがめていることがよくわかる。

高橋和巳夫人であった高橋たか子氏が
同じ趣旨のことを述べておられるが、
まさにそのとおりだと思う。

捨子物語の全体をすばらしいとは思わない。だが、その創作スタイルはいいと思う。

小説の技巧を凝らすよりは、自分にとって
その虚構の持つ必然性にゆだねて、
小説を作るということ。

ディックやSF作家の多くは
一見娯楽を追及してジャンルの
文法を踏襲して書いているように見えるが、それだけではなく、何かそこに
やはり個性がどうしようもなく
現れている。

現在の鑑賞者はそういった作者の
個性はどうでもいいので、
出来上がった小宇宙のできばえを楽しめ
ばいいのだが、個性の輝きのない小宇宙は
たやすく古びて興味がもてなくなるのだ。

そういった意味で、印象的なのが、
フラナリー・オコナーだと思う。

彼女はまったく、独特の個人的な
意味で、生きるために書き、書くために
生きたのだ。

その悲痛さを我々はよく理解できないが、
ずっと心に残してしまう。