ナルシストの両思いは可能か

鳥居みゆきhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D)のネタで次のようなものがあった。

(女性が体育館の裏に教授を呼び出し)

みゆき「教授、わたし、わたしのことが大好きなんです!」
教授 「そうかいそうかい。わしもわしのことが大好きじゃよ」
みゆき「それじゃ私たち、両思いですね!」

もちろん、この会話はどこか間違っているからこそ面白いのだが、何がどう間違っているのかをきちんと説明しようとすると難しい。

とても私に分析しきることはできないのであるが、できる範囲で整理してみよう。

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Ⅰ【私】の意味と意義


教授をドンキーとして、会話をいじってみる。

みゆき 「ドンキーさん、わたし、みゆきのことが大好きなんです!」
ドンキー「そうかい、わしもドンキーのことが大好きじゃよ」

会話の意味としては、間違っていない。みゆきもドンキーも、それぞれ自分自身を大好きと言っている。それぞれの台詞自体に論理的誤り・文法的誤りはない。問題は、それを両思いと表現した最後のみゆきの台詞にある。

絵で描ければよいが、出来ないので次のようなイメージを描いていただきたい。線でデフォルメされた人間のイラストがあり、そこから延びる矢印が愛情を意味する。

普通の正しい両思い→線でデフォルメされた人間が二体あり、互いに矢印で指しあっている。

みゆきの誤った両思い→二体の人間の体から矢印がのびているが、それは一回転して自分自身を指している。

こうして図に描くとまったく異なる状態であるが、それをネタとして混同させることが可能になるのは何故か。それは、「わたし」「わし」という言葉によるのではないか。事実上は異なる個体を指しているのに、ともに「わたし」「わし」という同じ意味の言語を持って個体指示をしているからではないか。

もう一度繰り返すと、「私(含む:わたし、わし)」という同一の「意味」を持つ言葉で、異なる個体を指示しているために、この誤った両思いのネタが可能になったのではないか。

言葉の意味と指示の食い違いが、鳥居みゆきのネタを可能にしたのではないか。

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Ⅱ特殊個人的な問題意識

私は上記の解決に収まらない問題意識を依然として感じる。さらにあいまいな記述にならざるを得ないが試みる。

私は私のことが好きだ、という文章は、例えばある文脈において「ドンキーはドンキーのことが好きだ」という意味になる。(もちろん日常言語においては私やわし、あるいは自分を自分の名前で呼ぶなどすべて少しづつ"ニュアンス”が異なるが、今は無視しておこう)

みゆきもドンキーもまったく異なる個体、存在なのに、両方とも「私」で【意味】される何かが共通している。しかしその「私」とはなんだろうか。

それを粗雑ながら浮き彫りにしてみたい。

ドンキーはドンキーが好きだ、という発言には、当然「ドンキーという人物は自分である」という知識と信念が必要になる。これは当たり前のように見えるが、当然ながらある人物が自分である人間について100%正しい知識を持っていることはまずない。

ドンキーはドンキーが好きだ、という場合、もちろんドンキーがどんな人間か知っており、それに基づいてそういう人物が好きになっているのだ。ドンキーなる人物は東大を出て、女性にモテモテでイケテル人間である。だから大好きだ。(もちろん、実際のドンキーは東大もモテモテも無縁である)

だが、それだけだろうか。極端な例を考えてみよう。自分が自分自身に関する一切の記憶を喪失したとしよう。だから自分がドンキーなる人物であることもわからない。それでも、彼は「俺は俺が好きだ」と発言しうる。その実質的な意味内容はほとんどゼロであるにもかかわらず。

おそらく「私は私が好き」「わしもわしが好き」という種類の文章には、「みゆきはみゆきが好き」「ドンキーはドンキーが好き」だけでは完全に代替できないニュアンスが存在する。自分がどういう人物かわからなくても、”端的に自分は自分”と言える言葉の使い方が確かにある。

そして「私」という言葉の意味の中核部分には、この「端的に自分は自分」という意味がある。その私は、もはやドンキーやみゆきや教授といった「個体」を指示しているのではない。それとは異なる種類の独特の”知”なのである。

そしてこの文章を書いているドンキーもまた、自分自身への知識とは別に(あるいは重ね合わせて)、端的に自分が自分であることを(独特な意味で)知っている。

ドンキーもみゆきも教授もそれぞれまったく異なる個体なのに、この知識に拠らない「端的に自分は自分であると知っている」というあり方をしているがために、同じ「わたし」という呼び方でくくれるのである。

この端的な自己知を、私という言葉でひっくるめて使っている。しかし、今日書いてきたような妙な掘り下げ方をすると、本当にひっくるめられるのか(だってみゆきが自分自身が自分であることを端的に知っているその端的さなど想像も出来ない)疑問である。

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以上、非常にラフだがあれこれ書いてみた。また違う角度で考えを整理していきたい。