12/19 私は、国を愛さない、という意見表明

 昨日、アメリカの州兵がイラクに派遣されるテレビのドキュメンタリー番組を見た。州兵というのは、「兵」というのは名ばかりで、月に一回だけ訓練があるぬるいものらしい。構成員はその辺のおっさんとか若造である。主に災害時などの救援活動などをしているそうで、だから地域社会に貢献したい牧師なども登録している。

 月二万円のお金がもらえるし、青年の場合二年間頑張れば大学の奨学金が出るので、その奨学金欲しさで州兵に入った人も多いようだ。
 無理に日本の制度の中で似たものを探すと、消防団などが近いのだろうか。

 しかし、歴史的に見れば州がほとんどそれぞれ国のように独立していたとき名残だ(と思う)から、いざとなると兵隊として本当に召集されることもある。しかしそんなことは朝鮮戦争ベトナム戦争のときのように相当でかい戦争で無ければ起きない。つまり、イラク戦争では正規軍だけではもうアメリカがやっていけないところまで追い詰められていることを意味している。

 州兵の家族も本人も何十年ぶりに州兵が招集されるなどと予想していなかったから、普通に兵隊として派兵された人の家族とはまた違ったショックを覚えている。

 その辺の農家のおっさんがビールッ腹を揺さぶりながら訓練を受け、イラクに派遣される。銃を扱ったことのない一般人を促成で数ヶ月間訓練させてイラクに送り込むのだ。ひどい国だ。

 どう考えても無理がある。45歳の親父に戦地に行かせる国、それがアメリカだ。

 州兵の厳しさはそれだけではない。何しろイラクに派兵された州兵の装備は1950年台の朝鮮戦争などに使われたおんぼろばかり。故障の連続でどうにもならないのだ。それでいて、国の陸軍と同じような危険なところを巡回しなくてはいけない。防弾の加工が車体に為されていないので、小火器でも十分貫通されてしまうので、車体に防弾チョッキをまきつけている有様だ。

 話が少しそれるが、北朝鮮にどうして小泉首相があれほどまで対話対話というのか、なんとなく理由がわかった気がする。アメリカは結構追い詰められていて、北朝鮮と事を構える余裕などないのだ。小泉首相は断固として靖国参拝をし、南米の日系移民にあったら涙を流すくらいの保守派なのに、どうして北朝鮮には及び腰なのか。勝手な推測だが、アメリカに今は問題を起こさないでくれ、と釘を刺されているのではないか。

 もう一つは、朝鮮系の何か影響を持ったラインが自民党の中に伝統的にあるのではないか、というところだけど、社会の裏についてはあまり詳しくないし興味もないのでわからない。

 話をそのドキュメンタリーに戻すと、まあアメリカのやっていることは大変だ。当たり前のことだけど、州兵の人々はくいっぱぐっれて軍隊に入った連中でも、何かアメリカに忠誠心をもっている熱心な人でもなんでもない。アメリカを愛してはいるけど、ほどほどの人たちなのだ。アメリカ州兵が担当している仕事のほとんどは、イラクの人々を助けるといいながら、あらゆるイラクの人を疑ってかかることをしないと成立しない。町を歩けばみな冷たい目で見るし、油断すると銃撃や爆弾テロを仕掛けられる。一般の民間時の家の囲いがテロリストのいい隠れ場所になるという理由で、承諾を得ずにブルドーザーで破壊する。それは半年前まで、イラク人と同じように農場を一から自分の手でつくってきた民間人がやるのだ。自分のやることに、疑問を感じざるをえない。

 イラクの人に自由をもたらすため、アメリカのため、と無理に鼓舞してやってきた彼らも、次第に深刻な懐疑に陥っていく。

 その後は、アルジャジーラ放送局がアメリカによって閉鎖されたというドキュメンタリーをやっていた。僕の感じでは、アルジャジーライラクの反米勢力が正義だとはぜんぜん思わないが、アメリカが正義ともまったく思えない。公平に見てアメリカは、日本での成功体験が忘れられなくて、イラクでもうまくいくと錯覚しているんじゃないのか、と思った。

 これらのドキュメンタリーを見ているうちに、少なくとも自分は日本という国家を愛することをしない、というこれまでの生き方を改めることをしないと決めた。国家はあくまで手段であり、愛したり尊敬したりするべき対象ではない。

 国家は個人をはるかに凌駕する力を持っているが、本来は個人が尊厳を持って生きるための道具であるべきである。

 「国益」などというものにだまされないようにしよう。国という単一の主体などない。それぞれの利益を受ける人とそうでない人がいるだけであり、それを調停する機関があるだけである。

 天皇もまた、私は一切の尊敬を払わない。それはキリスト教イスラム教に尊敬を払わないのと同じである。もちろん、天皇制を支持し、天皇を尊敬する人々を尊重はするが、私とは思想も感性もまったく異なった人たちであることは事実である。

 それらの文化全体は保護され、破壊されるべきでない。尊敬しないということと、軽視や別紙をするということはぜんぜん違うと補足しておく。

 私はキリスト教の神を信じないし、イスラム教の神も信じない。天皇が神の子孫であるということも信じない。

 国を守るということは、僕のような反国家的・反日日本人のことまで守るということになるのだが、それでいいのだろうか。

 日本の文化や友人や家族たちを大事に思い、それらを維持するために国家を支持するが、もし国家が逆に彼らの尊厳を奪うようであれば、われわれは自分で新しい統治機構を模索するべきである。

 インターネットを見れば、主に若い人を中心に、韓国や北朝鮮、中国を蔑視したり、日本という国家を称揚し、その立場から反国家的な人々を弾劾するような論調が多い。中には尊敬すべき意見も多いが、多くは感情的でただ自分の欲求不満を仮想敵にぶつけているだけのように思える。

 やっぱり、人間そういう風に敵を作って叩くの楽しいのだろうと思う。自分も覚えがあるが、自分が正義だと思って敵を叩くのは実に愉快なものだ。しかし、今僕は一歩下がって、自分にある制限を加えようかと思う。

 自分もまた、国家や社会について何がしかの意見を持たざるをえず、その意見と異なる人に対しては、同じように敵を叩く快感に酔いしれてしまうだろう。そうならないために、何がしかの制限を設けようと思う。それは、そういう行動があまり意味がないと思うことが一つ。つまり自分がネットや現実で、誰かを自分なりの考えに転換させることが出来ないだろうし、させたところで一人か二人がせいぜい、という観点。もう一つは、自分が本来直面すべき不満を、そういった対象に転換してぶつけてしまうから。

 欲求不満でたまった怒りを娼婦にぶつけるキリスト教信者。自分の社会における価値が低いことを直感的に知っていて、それを国やイデオロギーという個人以上のででかいものに自分を感情移入して頑張る青年。

 そういうものになりたくないのだ。

 自分のことをきちんとしている人が、国家について語ったりしているのを見れば、私はその人の意見を傾聴すべきだと感じる。例え言葉上では若造と同じだとしても、それを語る動機がより純粋だと思うからだ。

 私は、今主に国に対して述べているが、倫理や道徳といったものに関しても、深入りをしない、という意見表明でもある。自分以上のものを語り、自分が直面している問題から目を反らしたくない。
 
 また、そういったものを自分のアイデンティティに組み込まない、という意見表明でもある。

 以上のことを感覚として、昨日テレビを見ていて味わった。