11/29

at 2004 11/29 22:33 編集

昨日、グレッグ・イーガンの「万物理論」を購入し、昨日と今日で読了してしまった。

万物理論とは、宇宙の根本的な原理を説明する理論である。といっても、具体的に言えば、重力、電磁気力、強い力、弱い力、などの基本的な力を、統一的に説明する理論である。いや、それは現在試みられているものに過ぎず、それをも包括した、宇宙がなぜ存在しているのか、宇宙がどのような原理によって動いているのか、統一的に説明する理論だ。

重力に関する現在の基本的な枠組みは一般相対性理論であるが、それは、ある部分で、量子論と折り合いが悪い(のだそうだ。某科学読み物によれば)小説「万物理論」の舞台は今から半世紀後のことだから、相対論と量子論の統合がなされ、さらにもう一度基本的な原理が発見され、今度こそ宇宙の成り立ちを統一的に語りうる理論ができそうだ、というところまできていることになっている。

いわゆる科学入門を読むと、ニュートン力学は、アインシュタイン相対性理論によって否定されたわけではない。ニュートン力学は、相変わらずアインシュタイン以降の物理学でも正しい。ただし、それはあくまで非常に良く出来た近似としてである。話が光速に近い領域になるとニュートン力学では説明できない現象がいろいろ起こってきて、アインシュタインの出番になる。

一般的に、科学というのは、連続的に発展して行く時期と、飛躍的に転換する時期がある。あるステージにおいての説明体系が緻密になっていけばいくほど、一見些細な説明できない不具合が出てくる。そしてそれをある視点で捉えなおしてみると、今までのステージを越えたステージが広がっており、いったん新しいステージが開ければ、天才でない人々も加わって、再びそのステージでの説明体系を緻密化していくのである。

このステージに終わりはないのだろうか。宇宙の成り立ち、宇宙の仕組み、こういった根本的なものを適切な形で記述するような原理を、われわれは知ることが出来ないのだろうか。私や、これを読んでいらっしゃる皆さんが生きているうちに、ということであれば、万物理論に出会うことはほぼ確実に無理である。イーガンの小説の設定のように、現在チャレンジされている次のステージが開かれたとしても、それはまだ万物理論には到達していないだろう。

だが、いつか万物理論にたどり着けるだろうか、という問いならば、答えは難しくなる。

どのように表現したらいいかわからないが、万物理論がもし発見されたら、一つの底にわれわれは突き当たったことになる。

あいも変わらず、宇宙は神秘に充ちているが、そのもっとも外側のフレームが理解できた、ということになる。

形而上学的なものではなく、物理理論として、それを見つけることが出来るだろうか。

その答えは誰もわからない。「やってみなくてはわからない。(ただし、人類史というスパンで)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちょっと疲れたせいか、うまく小説の紹介に話がもっていけない。

カオスやフラクタルの話を聞いて、その画像を見たものは、自分の住んでいる世界が少し変化したことに気がつくだろう。

街路樹の枝ぶりや、雪の結晶が、ある数学的なパターンの具体化である、ということが、肉感的に理解できるだろう。

そこまでいわなくてもいい。風呂の栓を抜いて、流れる水が渦を巻くのをしっている人は、銀河系の全体をシミュレーションした画像を見たとき、明らかな類似を見るし、銀河系の構造を規定している原理を数学的に説明できなくても、直感的に理解できるだろう。

その延長上、それを極限にまで空想の上で伸ばしていただきたい。そうすれば、われわれは、宇宙のさまざまなレベルの秩序、あるいはランダムネスを同一の原理の(その原理はもちろんわれわれが知っているあらゆるパターンを含み、それでいてそれらよりシンメトリカルであるはずだ)。

はっきり言って、ほとんど妄想である。

だが、少なくとも理論物理学宇宙論は、そういった妄想を遠近法においての消失点のように抱いて、日々チャレンジされているはずだ。

イーガンは、そもそもそんな厄介なものを、SFのテーマにしたのである。

非常に危険なきわどい選択だと思う。

いわゆる究極の理論がどのようなものであるか、現在のわれわれの常識からあまり外れてしまうと、小説として成り立たない。

成り立たないが、われわれの常識の範囲内であると、究極の理論という想定が成立しない。科学に関心のある人ならば究極の理論が、どれだけわれわれからかけ離れたところにあるのか痛感しているはずだからだ。多くの人はそういったものの存在さえ、まともな想定として認めない。

もう一つ小説として難しいのは、そのような万物理論をでっち上げることが出来たとして、それをどう小説にしたらいいのだ。

小説の本質は、その自由性にある。しかし、SFの本質は、ある制約を引き受けた上での自由性にあると言っていいと思う。まったくの自由を行使したとき、それは限りなく狂人のたわごとに近づく。

それはそれで結構だが、万物理論の小説としては不適当だろう。なぜなら、描きたいものが既にぶっ飛んでいるからだ。それを描くにはある程度のリアリズムを用いなければならない。商業的云々の前に、化け物を描写するのに、抽象画では意味がない、ということだ。


・・・・・・・・・・・・・

どうしても、話を収束できない。疲れてしまっているのだ。それでも日記に書きたいことがある。

いつもあまりまとまった文章を書いてはいないが、今日はもっとブツ切れでも仕方がない。

万物理論は、物語、いや、SFとしても最上級とは言いがたいかもしれない。しかし、SFのあるコアな価値観においては、比類ないすばらしい作品である。

私が万物理論をむさぼるように読んでいる途中で、私はいくつもの過去に読んだすばらしいSF作品を思い出さずに入られなかった。

それらの作品のすばらしさを思えば思うほど、逆にこうも思わざるをえなかった。「そしてわれわれは、ここまで来たのだ。」と。

スティーブン・キングの作品にも言えることだが、彼は、自分が提出した小説世界に対して、本当に見合うだけの答えを与えきれていないと思う。

小説のメインテーマは人間ではないと思う。それは世界なのだ。そしてわれわれは人間を通してしか世界を理解できないがために、ほとんどの小説が人間を主人公としているのだ。あるいは世界の魅力の大きな部分を占める存在者が人間だからである。

物語の面白さ、つまり世界を求めれば求めるほど、作者の意図を超えて、その世界が、あるいは作品が提示したものに、作者が答えを与えることが出来ない場合がある。

イーガンの小説の「宇宙消失」は、これもまたマイ・オールタイムベストテンに入れたい傑作だが、最後に訪れるビジョンは途中までの緻密さに比べれば、アドホックな感が否定できない。

今回も、少しそういう気がしたが、それは仕方がない。

また話がそれてしまっている。

つまり言いたいことはこうだ。
私はこの小説を読んで、イーガンがいろんな形で反復している物語、問いかけのようなものに改めて触れたような気がした。それはある程度の私のものとも響きあう。

イーガンは科学に詳しいが、哲学にはあまり深い関心はないようだ。文中にカミュニーチェライプニッツがちょっとだけ出てくるが、いずれも皮相的で、物語の本質ではない。得にライプニッツなど、イーガンの小説のような奇想に満ちているのだが。

それで、要するに、私は、改めて自分のい立ているものが、去来するのを感じて、それらが芸術、哲学、科学、とまったくちがうもにまたがっていても、何か根本的に関連があると実感した。

そしてそれは、言葉にしてしまえば、くだらないのだが、生と死、に関することなのである。

キングがおびただしい作品で反復している何か、イーガンもまた。

もちろんそれらは違う。違う人間だからだ。私も違う。だが、まったく違うわけでもない。

とにかく、いいのだ、これを続けようと思った。