九月一日

at 2004 09/01 23:23 編集

今日は久しぶりに暑かった上に、職場でいろいろなイベントがあったために余計に疲労した。しかし、精神的なダメージは少ないため、ぐっすり眠れば回復するタイプの疲労である。

興味があって、音楽を聴くと脳のどのような部分が働いているのか、インターネットで調べてみた。するとどうも見つかるのが、クラシックが脳の機能を高める云々という説ばかりだ。別に私は科学者ではないからそれに反論するに足る根拠はないのだが。どうも疑わしい。特に、科学者のヘビメタやラップは脳の機能を低下させるという説とセットになっている場合が多いことを考えると、単に研究者の音楽の好き嫌いを言っているだけの様にも感じられる。

一般的に言って、ハードなロックやラップなどは、テスト勉強しているときに聞いたら気が散りそうな気がする。しかしそれも好き好きであり、そういうのが好きな人もいて、逆にクラシックを聞かせたら眠くなってしまうだろう。

クラシックが高級という先入観から、そういう「科学的」なる実験結果が出ているだけに思う。

もっと脳の機能を高めるとか、そういうことではなく、音楽を聴くときは脳のどこが働いているのか、という素朴なことが知りたかったのだが。

気分を落ち着けるのに適した音楽など、自分でいろいろ試してみればいいことであろう。

とはいえ、今音楽についていくつか考えていることがある。それはもっと音楽を楽しみたい!!ということだ。具体的にいえば、漫然と聞いているのではなく、もっと細かいところまで感じてみたいのだ。楽器が何か一つ出来るだけでも、ずいぶん音楽を深く楽しめるような気がする。

カルメン・マキは、僕がすごいと思っている歌手の一人だが、彼女の音楽の聞き方も、かなり独特に思える。われわれはぐちゃっと一つの音の塊として音楽を聴いていると思うのだが、彼女には、ドラムやギターなどの楽器がそれぞれの音として聞こえ、同時にそれを一つの統一されたものとしても把握している、というのだ。

特に意識してそう聞いているのではなく、そう聞こえるのだという。プロのミュージシャンならば、こういう聞こえ方が出来るのかもしれない。

別に達人を目指すとかそういうのでなく、こういう聞こえ方が彼女の万分の一でも出来たら楽しくはないだろうか?

もっと出来ればいいなあと思うのは音楽だけではない。僕は中学高校と英語と数学が苦手で過ごしてきた。特に嫌いというのではないが、よくわからないし、どう勉強したらいいのかもよくわからなく、苦手だなあという意識を育てて敬遠してきた。

だがそんな自分を振り返って「損だなあ」と思うことがある。人間の知の営みの半分は、理系の分野である。それを大まかに知るだけでも楽しいはずだ。それには数学や物理や化学などの基礎知識で、大まかにどんなことなのかはわかるのだ。しかし、その基礎すらないと、本当にちんぷんかんぷんで終わる。

終わっても別段害はないのだが、得もない。科学ニュースを読んで、へエーすごいなーと感動することが出来ないのは、少なくとも僕にとっては悲しいことだ。

同じようなことを造形美術にも感じる。今まで知り合った人の中には、ごく普通に、写メールなどを撮っただけなのに、それが非常に独特で美しい人がいた。同じ絵の話をしても、ぜんぜん受け取っているものが違う人もいた。もちろん、僕の漠然とした感想と違って、自然に、絵の持つ本質的なものを表現できる人である。

まあ、こういうことをいうと切りがない。
とにかく、もっともっときちんと理解したいなあ、そして理解できたなら楽しかろうということがたくさんある。

人間もそうなんだと思う。僕は大体あまり人間に関心がないが、それは僕が人間に対する感受性が低いからだと思う。人間の些細な行動などを見て、なるほどなあ、と感心できるだけで、ずいぶん人間に対する興味がわくと思う。

で何が言いたいのか。そういう感受性を高めるには、数学やったり、意識して音楽を聴いたり、人間観察したり、という具体的な鍛錬方法がある。だが、あらゆる分野に共通する根本的な方法があるように思う。それは、自分の中を見つめる、という方法である。

節穴な目でも、絵を見たらごくわずかでも何か自分の中に動くものがあるだろう。それを意識的に見つめるのだ。

音楽の具体的な構造がわからなくても、感じるものがおのずとあるだろう。音楽の構造だけでなく、その感じを見つめてみるのだ。人間と付き合うときもそうだ。運動もそうだろう。

そういう自省、内観の癖をつけること、それが大事だと思う。細かい技術的な向上があったとしても、受け取る自分が鈍ければ仕方がない。いろんなことを知っているのに、どうにもつまらないことしか言わない人がいる。知識や経験は豊富だが、それであなたはどうなんだ、と聞いても、誰かに聞いたことがあるような言葉しか返ってこない。哲学の話をしているのに、歴史的な構図でしか話せない人はそういう人だ。

そういう連中には、技術には長けていても、本質的なものが鈍いのだ。

この日記もそういう自省、内観の一つの場所になればいい。だが、もっともっと生きていくうえでの姿勢として身につけたい。
自省というと反省みたいで、自分の制御ばかりしそうだが、そうではない。自分の中の感情をどんどん高揚させて普段ならしないようなことだって出来るようにするのが、内観であり、自省だと思う。変な例えだが、たいてい焼いたもちは膨らんでも破裂しない。一定のところでしぼんでしまう。だがそれを精密に観察して微調整することで、もちをしぼませずに破裂されることだって出来ると思う。同じことを自分の感情に当てはめることが出来ると思う。

羊たちの沈黙で、レクター博士が警棒で警官を撲殺するシーンがあった。その表情がすばらしいと思った。単に狂気や感情が高ぶって撲殺しているのでもない。冷徹な計算の上で殺人を行っているのでもない。根底にあるのは紛れもない狂気でありながら、自分が全面的にそれに与してはいない。そういう自分ではどうにもならぬものの命ずるままに、あるべき姿を実現している官僚のような顔。

わかりやすく言えば、単に陶酔もしてないし、ただ冷静なのでもない、非常に微妙な表情を彼は表現していると思う。

野獣死すべしのラストで、松田優作は追い詰められた果てに、狂気の世界に至る。至るのだが、その世界はすごく静謐で、満ち足りている。優作はその世界に戸惑いながら、現実において追いかけてきた刑事に射殺され、狂気の世界の中でも死んでしまうのだが。

僕はあの静謐な感覚が素晴らしいと思った。