八月二十六日

at 2004 08/28 00:01 編集

この日記は八月二十七日に大幅に加筆訂正したものです。
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だんだんと涼しくなってきた。やっと夏が終わり、秋が来る。暑すぎると、やはり難しい文章が読めなくなるから、涼しい方がいい。

読んでいる本や借りている本がだんだんと増えてきて、ここに書くのも面倒になってきた。いつか余裕があるときに書くことにする。

哲学関連の文章は、いろいろ考えていることがあるので、今日は書かない。時間もないし。

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今朝はいろんな夢を見た。夢は特に意味があるものではなく、譫妄状態に近いという説を読んだことがあるが、おおむね賛成である。そのときの連想などによって、ほぼランダムに心の中の情報が登場するのだと思う。

意味のある夢、筋道のある夢は、そういう夢のほうが記憶に残りやすいからだろう。

しかし、夢に登場するトピックやその展開の仕方は明らかにその人の性格に依存しているので、夢を解読するというのではなく、夢をどのように受け止めるか、という現存在分析的な解釈が、それなりに意義があると思う。

夢の中で、いろんなことを考えた。そのうちのいくつかを断片的に紹介したい。

能について夢。

能は高度に様式化されているが、それでいて異様なほどにエモーショナルである。切断するような(何を切断するのかはうまくいえないが、日常性のようなもの)鋭い楽器の音、ギリシャ悲劇のコーラスのような情動をかきたてる地謡、シャーマン的な人物、だが、極端に様式化され、ある明確な論理がそれを支えている。矛盾する傾向性がある。おそらく、極度の様式性のうちに、情動性をもたらすことで、能は成立する。

面白いのは、能における高度な様式性が、言語的に翻訳できない微細な身体の所作であるということ。

古代ギリシャギリシャ悲劇は、最初は能のようにエモーショナルなものであり、それほど複雑な筋書きがあるわけではなかった。しかし時代が下るにつれ、言語的な秩序化が進み、ストーリーに主眼が移り、現代のわれわれの知っているような演劇に近づいたという。

ニーチェは「悲劇の誕生」という本で、ギリシャ悲劇のエモーショナルな側面をディオニュソス的、理知的な秩序をアポロ的と表現した。

アポロ的とは、一般的には理知的な秩序、具体的には言葉によるストーリーの発達ということだろう。だが、能のにおける言語は、ほとんど日常の言語とかけ離れている。

(もっとも、江戸時代は能は武士のたしなみであり、能のせりふなど説明するまでもなく観客が知っていたので、言語をはっきり発音するよりも美的効果を優先する風潮があり、現代人のわれわれには理解できない発音になったという説もある。)

ストーリーも、歌舞伎のように理路整然としたものではない。

能も、身体の微細な所作によってディオニュソス的なものを呼び寄せ、能の舞台にみなぎらせる。しかしただ情動的なのでもなく、それをぎりぎりで制御して見せるところに興味が尽きない。

「ある」ということについての日本的な了解がそこに示されているともいえるのではないか。

いきなりそんなことを言い出したのにはわけがある。以下それを説明する。

ルース・ベネディクトは「日本人の行動パターン」において、日本人はインドに発する神秘的状態をもたらす修行(禅など)を取り入れながらも、神秘的状態そのものを目指すことをしない、と論じている。(おそらく密教について彼女は見落としている。彼女は武士道に影響を与えた禅宗を主眼においている。)

その状態においては、何かをしながらも、それを自分がしているのではない状態に至
る。その状態は単なる夢中とかではない。あくまで冷静な自分は残る。失われるのは、行為者と意思者の中間の、傍観者としての自分である。

ベネディクトはその境地を無我の境地として紹介している。

以下少し自分なりに敷衍してみたい。

無我の境地で剣を振り下ろすとき、そこには剣独自の論理があり、それを貫徹しようとする私がいる。
それらは、別個に存在するものではない。

私が剣の論理に聞き従おうとするからこそ、剣の論理が存在しうる。闇雲に振るのではない、こうでなければならないという最高の振り方があるはずである。

日本における最高度の境地においては、目的の達成よりも、最高の振り方、その論理の(茶の湯であれ、剣術であれ、思想においてであれ)最高のあり方を求めるのである。勝ち負けはそれに伴う結果に過ぎず、目的ではない。

たとえば、将棋界の羽生名人は、「最善手」という言葉を独特の意味にずらして使っておられたように思う。神様だけが知っている、最高の一手、という意味だと思う。勝ち負けには徹底的にこだわるプロの方でありながら、それ以上に将棋そのもの可能性を極めたいという意味に私は受け取った。

また、私は剣の論理に促されて、それに聞き従おうとするのでもある。それは、いまだ存在しないものからの呼び促しである。なぜならそれは最高の存在のあり方を実現するのであるから、「まだ存在していない」のだ。そして剣の使い方は、状況によって無限に多様であるから、最高のあり方はそのとき初めて達成されるのだ。

わかりやすく言い換えると、無我の境地においては「まだ存在していない、本来あるべき最高度の世界のあり方」それ自身が、私に、それを実現させよ、と呼びかけけるのだ。しかし、それは「神の言葉」のような「預言」ではない。何故ならば、そのあり方はいまだ実現しておらず、どこにも「存在」していないのだ。だからその呼びかけには、具体的にああしろこうしろという伝達される意味内容は原理的に存在しえない。

夏目漱石夢十夜では運慶が仏像を彫っているのを眺める夢が出てくる。運慶は、仏像を彫ろうと思って彫るのではない。木の中にある仏像の形をただ掘り出すだけだ、という。しかし明治の木には仏像はもう入っていないのではないか、と漱石が疑問に思うという夢である。

木の中にある仏像は、ああしろこうしろと運慶に命令しない。運慶はただ余計なものを取り除いていくだけであるが、なぜそれが余計なものなのか、自分でも説明できないであろう。言語によって伝わるような意味で、目指している仏像の形を知っているわけではないから。(そこが西洋のイデアと違う。)むしろ無我の境地で一身に彫っていったら、仏像がそこに出来ていた、というのが本当ではないか。

こうして、いまだ存在しない存在からの、言葉によらない促しによって、私は存在をあらしめようとする。

シャーマンや預言者は、既に存在している超自然的存在者を、自らのうちに呼び寄せる。だが、無我の境地においては、そもそもそのような存在者を呼び寄せるのではない。存在者を存在させようとする何かの呼び声に従うだけである。

シャーマンが霊を自分の中に入れたとき、シャーマン自体の自我は喪失するか、非常に弱くなる。異なる存在者が、シャーマンの身体を支配するからだ。だが、日本的な無我の境地においては、いかなる存在者も、私の存在を弱めない。繰り返し述べたように、無我の境地は存在者を呼ぶのではなく、存在者を存在させようとする声に従うだけだから。そのとき、むしろ聞き従おうと自分を声に対して開く自分は、その個性を最高度に発揮している。

なぜなら、その場、そのときにおいて、それをなしうるのはそこにいる他ならぬ「この私」しかありえないからだ。

ではなぜ「無我」の境地というのか。そこで消滅するのは、ベネディクトによれば、行為者である自分でも、行為しようとする自分でもなく、それらを傍観者的に見ている自分である、というのだ。

もう一度剣の話に戻って説明をしてみよう。

「日本の子供は、自分の行為を観察して、他人になんと言われるかという点からその行為の是非を判断するよう徹底的に訓練される。その子供の中の傍観者としての我はひどく傷つきやすい。魂の三昧境に没入するとき彼はこの傷つきやすい自分を排除する。すると『自分はそれをしている』という感覚はもはやなくなる。」ルース・ベネディクト著日本人の行動パターン94ページ

これを僕なりにいかえれば、剣を振り下ろすときに、怪我をするのではないか、勝たねばならない、負けるのが怖い、こういった余計な思いを排除することが無我の境地である、といっていいと思う。そのような感情は、今までの経験や自分を守るために必要な『気遣い』である。それらは日常の既成の範囲内で生きる部分には有効なものである。しかし、いまだ存在しない世界の局面を存在させようというときに、それらの感情、意識は有害である。

そういった傍観者的な自分を排除したとき、明瞭な意志者たる自我はむしろ最高度に発現する。同時に、客体としての世界、自分の身体などは、その存在の本来的なあり方を最高度に示す。

甲野善紀氏は、茶の湯を「順縁」すなわち喜ばしい出会いの場における礼であるとすれば、武術とは、「逆縁」最も敵対的な出会いにおける礼である、という趣旨のことを主張されていると思う。そして礼とは、その場におけるもっとも必然性のある存在の仕方であるともしは主張されていると思う。

すなわち、その必然性にしたがうことが無我の境地であって、そこで排除される我とは、その必然性を阻害するような我なのである。

能に話を戻せば、基本的にはシャーマンのように外的な登場人物の存在を呼び寄せるものであるはずだが、能の構造としてそういう側面はあまり強調されない。シャーマンとして発生したという名残があるだけだ。

能の名人は、その「世界」をあらしめることにおいて評価される。そこではシャーマンのように具体的な人物の霊が召還させれるわけではなく、人物を含めた「世界」そのものがあらしめられるのだ。能の踊り手が遠くを眺めるような手のふりをするだけで、そこに山が「ある」ような、微細な身体の所作があるのだ。

それは呼ぼうとして呼ぶのでなく、その世界が踊り手を呼んでいるのでもある。そしてうまく舞ってやろうとか、呼び寄せてやろうと思うっているうちは、その世界の必然性をわが身に招来することは出来ないのだ。

同じように、剣術や弓術においても斬ろうとして、当てようとして当てているうちは本物ではない、といいたがる傾向が存在する。

矢を当てるように弓を放すのではなく、矢が当たってから弓を放すのだ。(ヘリゲルの禅と弓)

ある武道の達人が鉄砲で自分を狙わせて撃たせても、不思議なことに弾があたらない。しかし、名人と呼ばれる猟師が猟銃をぴたりと構えたとき、「これは当たるな、やめよう。」といったと言う。すなわち、その武道の達人によれば、その猟師は当てようと一切考えていないのがわかった。だから自分に当たってしまう、というのだ。

一見屁理屈にもならない謎かけのような問答だが、ここまで反復の多い文章に耐えて読んでいただいた方には、武道の達人の言わんとすることがお分かりいただけたと思う。

このように日本的な「存在」と「存在者」つなぐ「私」と、それを阻害する傍観者たる「私」を理解すると、いろんなことがわかる。日本的仏教において、無我といわれるものは、第一には、要するに、存在者としての「私」を否定しているのだ。存在者としての私という観念が、恐怖心や功名心を生み、「存在」に耳を傾ける「私」を阻害してしまう。
無我の第二の意味はこうである。存在に耳を傾ける「私」は、存在者としてみれば、単なる行為者、媒介者にしか過ぎず、「本来無一物」である。その意味でも「無」なのである。この言葉の複雑さ、「無我」の二重の意味が、日本的な無我の境地をわかりにくくしている。

だが、こう考えたとき、無我の境地の意味が、私にはよくわかる。なぜならそういう境地を私は目指していたようだからだ。

私は逸脱を求めていたが、ピンク色の光に襲われる(ディックのような)神秘体験も、イスラム神秘主義のような見神体験も求めていない。逆に、ユングのセルフのような高度の秩序も飽き足らない。極度のエクスタシーであるとともに、同時に最高度に冷静であり続け、願わくば日常をも享受しうるような境地。

まったく相反するような条件を求めていたわけだが、禅宗、武士道にそういう側面が実はあったわけであり、古くは能にその古い祖形を見ることが出来たのではないか、と漠然と感じた。

そうなると、ギリシャ悲劇と能の違いを実際に確かめたくなってくる。ギリシャ悲劇の秩序化が、なぜ言語的な秩序化なのか。
日本においてはそれはあくまで身体における様式化にとどまったのに。このことは西洋人は言語的なものが秩序的という常識があるので、あまり気づかれていないように思う。

しかし大事なことこそ言葉なぞに出来ないと「腹」の底で考えている日本人として、結構自らの文化を考える必要があるのではないか。

そしてそれは、西洋に発する哲学なぞに人生を無駄にしている自分についての問いにつながってくるに違いない。

実は、この議論はほとんど日本語に翻訳された後期ハイデガーの思想を、日本人の感性で言い直したのに過ぎない。ハイデガーをこのように理解することには強い、そして正当な批判があるが、私には正当なハイデガー解釈でないと踏まえた上ならば、一つのありうべき知的試みだと思う。