シ 死・ぼく・痕跡と前兆  

at 2004 01/22 22:25 編集

イデアノート

明日死んでしまうかもしれない、という教説に対する違和感。

明日死んでしまうかもしれない、という主張が、どうも
違和感を私に与える。

その理由を考えてみると、「まもなく私が死んでしまう」
という主張が、「そもそも未来の私が死んでしまうことを
考えることができる、というのは何故か。あるいは本当に
未来の自分のことを考えることができるのか」という
主張を隠蔽してしまう傾向があるように、私には
感じられたからだ。

五分後の未来の死と、半世紀後の未来の死は、
両方とも、納得できる理由から、同じ確実性をもって
訪れる、としよう。

その時、圧倒的に五分後の未来の方が
生々しさを『今』の私に与えるだろう。

半世紀後の死が確実に訪れるといっても、
ほとんど言葉だけの理解しか生れず、
生々しさはほとんど生れないだろう。

だが、近い未来も遠い未来も、未来には変わりないのだ。

この落差はなんだろう。

五分後の未来は、今の現実と共通点を多く持ち、
前兆が多く現れているからだ、
と考えることもできる。

だが、それもおかしいのではないか。そもそもそれが
『前兆』とされるのは、五分後の未来を
なぜだか「今の私」が『今』と密接につながっている
と考えているからに過ぎない。

近い未来、遠い未来というのも、結局は
『今』の自分が、観念で把握しているものに
過ぎないはずだ。未来が、『現在』に干渉していると
すれば、それはすでに未来ではなく、『現在』
の一部だからだ。

だが、我々は実際に近い未来に生々しさを感じるし、
半世紀後の未来はほとんど字面だけでしか
理解できない。

同じことが過去にも言える。

我々はこう生きてきた、という『自分の人生』なる
ものを理解していると考えている。

だが、「記憶」というものは、もちろん誤りうるものだ。
客観的事実を突きつけられ、実際にはお前は
こう行動していた、といわれれば、記憶の方が
間違っており、客観的事実が『自分の人生』
である、と言わざるを得ない。

だが、自分がほとんど人生の記憶を失ってしまい、
客観的事実だけを把握していたとしても、それは
『自分の人生』といえるだろうか。

半世紀後の未来のように、極めて生々しさの欠けた
言葉だけの何かにしか思えないのではないか。

だが、自分の人生をいかに明瞭に把握していようが、
それを『自分の人生』というわけにも行かない。

そもそも『記憶』というものは過去に実際に起こった
ことの記憶、という意味があるからだ。

客観的事実とまったく食い違うが生々しい膨大な記憶を
持っているという人は、『自分の人生』がどれかうまく決定
できないだろう。

記憶から抜けていた過去が、記憶に戻ることもあり、
逆もあるだろう。その時、『自分の人生』に
何が付け加わり何が、変化したのか、あるいは変化しないのか。

とにかく、近い未来が、いかに現在の自分の観念の中にしかなくとも、
つよいリアリティを持つ。向けられた銃口は、非常に、自分が
打たれる未来から、『現在』に向けて、前兆として、
影響を与えているような『気がする』。

過去もそうだ。もはや生々しく思い出せない、記憶、
客観的事実でしか確認できない過去、そういったものとは
別の、生々しい過去というものがあるし、それがないと、
『過去』というものの意味さえ怪しくなる。

だが、繰り返しになるが、それは『錯覚』ではないか、
という可能性が高い。生々しい過去、それはあたかも『過去』
が近い『現在』に、何らかの方法で
『痕跡』として影響を与えているように感じられる。
この事情は未来と同じだ。

だが、未来にしろ、過去にしろ、それが現在に影響を
与えるなどということができるのか。
できるならばそれは『現在』存在していることに
なるのではないか。

向けられていた銃口が実際には下げられて、
撃たれずにすんだ。あるいは、昨日酔っ払って
喧嘩したと思ったのは勘違いだった。生々しい記憶があるのに。

こういった事態を見れば、『過去の痕跡』『未来の前兆』
という理解の仕方が、すでに現在の我々の
基本的な解釈によっている、観念上の存在に過ぎない
事がわかる。

問題はわかるが、そのリアリティが全然揺るがない、
ということだ。

こういった問題圏の存在を
「いつか、まもなく私が死んでしまう」という問いかけは、
ある現実を構成する虚構を暴きはするが、
別の種類の虚構に依存し、その虚構(ずっと語ってきた
時間の問題)を隠蔽してしまうのではないだろうか。