ウェブはエンヤ婆の弓矢?

今日は完全に息抜きの記事で・・・(今までもそうなんですが)

先日のクラブグーグルの話は、そのまんまいろんな方が言っていることを極端化しただけでしたが、自分の中ではある理解がはじけた感じです。

われわれの経験のうちのある特殊なタイプのものを「科学」という共通の文法で扱い始めたかのような、われわれの経験の共有化がウェブによって可能になり、そこにおのずと要求される態度がある。それは個々人の知的生産性を向上させることとほとんど似ているけれども、実際には「クラブグーグル」を豊かにすることで、クラブグーグルの構成員である自分をも豊かにする、という(ある意味では一つの神話ですね)お話でした。

そういった世界でどう生き抜くかが問題なわけですが、それは「共通化・平凡化」と「個性化・特殊化」の独特な平衡を保ちつつ、両方向の絶対値を大きくすることだと思うのです。

単に極端に個性化を図れば、おおよそ多くの人に理解されずウェブだろうがなんだろうが孤立したままです。かといって、知的生産物を二次三次資料のみに依拠して縮小再生産するのであれば、あまりに凡庸すぎてこちらも誰からも省みられなくなるでしょう。

要するにオリジナリティを持ちつつ、どこまで共有可能性をも強めていくか。

そこで突然「ジョジョの奇妙な冒険」を思い出しました。ジョジョの奇妙な冒険にはきわめて独創的な「スタンド」というものが登場します。一言で言えば超能力なのですが、同時にポケモンのように独特のキャラクターの発現も伴います。それはその人物の精神の個性と強さを具体的に形象化したものです。

それを無理やり開発させるのがエンヤ婆(えんやばあ)が持っていた弓矢です。それに射抜かれるとあるものは死にますが、運がよくなおかつ精神力の強い人間は、自分の精神の個性を具現化した「スタンド」が発現するのです。スタンドは多くの場合非常に特異でそれぞれの個体ごとのルールがあり、そのルールに従ってスタンド同士が戦うのが面白いわけです。同時に、そのルールのおかげで非常に個性的なスタンドがわれわれにも理解可能になるわけです。

きわめてあいまいな類似ですが、われわれはウェブ時代というエンヤ婆の弓矢に射抜かれた世代だといえるでしょう。そこから「闇の職業安定所」で出会って何かやらかすか、ブログがヒットして素人だったのが本を出したりするか、何かが出てくる可能性があるわけです。ひょっとしたら「ウェブなんかに出会わなければ犯罪を犯さなかったのに・・・」ということもあるかもしれませんが、それは避けようがないのです。

まあ犯罪者の話は別としても、いい意味でのスタンドが発言した人がだんだん発生してきたようです。

ごく限られた人々ですが、いわゆる「アルファブロガー」というのは、そういう意味では「スタンド使い」(いい意味での)と言って良いでしょう(笑)