10月31日

at 2004 10/31 23:15 編集

小田和正の歌を何曲か聞いているうちに、少し考えたことがある。それは彼の歌詞には、現在に対する強いこだわりがあるということだ。

それは現在というよりは、今直面しているこの今、というものへのこだわりだ。現在、という言葉だけだと、地球の裏側とか、遠くで暮らしている家族の今とかも含まれてしまうが、小田氏のこだわりは、本当に自分が直面している今見ているもの、触っているもの、心の中で動いているもの、そういうものなのだ。(哲学的にややこしくいえば、こうした直面しているものだけでは、過去、未来を含んだ時間は構成されない、と私は考える。)

もっと細かく言うと、恋愛という局面における直面しているものにこだわっているのだ。

それは恋愛の局面においてそれぞれ予感とか、どうしようか迷っている時とか、別れを決めたというか、別れが心の動きによって決まったときとか、・・・。

面白いなあ、と思うのは、歌によって、現在直面しているものへのこだわり方が違う、ということだ。

別れに気がついたときは、歌っている視点と、歌われている状況の自分にあまり距離がない。(屁理屈でいえば、距離ゼロはありえない。なぜなら、距離ゼロだとしたら、その恋愛中にその歌を歌っていることになるから。もっと屁理屈を言えば、歌の歌詞で、歌っている自分を描写しても、それが本当に距離ゼロになったといえるのだろうか。)

しかし、恋の予感とか、楽しいなというポジティブな歌のときは、どちらかというと歌詞で歌われている状況と、歌っている自分の距離が大きい。

この直面している「今」が、すぐに過ぎ去って、この気持ちさえ、自分さえも変わってしまうことを歌っている彼は強く感じていて、だからこそこだわって歌っている、という感じがする。

なぜそうなのか、ということはよくわからないが、なんとなくそんな気がする。しかし小田和正の歌が好きだとはいえ、全部の曲をきちんと歌詞を聴いてみたことがないから、あくまで限られた範囲での主観的な印象である。

そう考えたとき、自然に比べたくなるのがサルトルの「嘔吐」という小説である。サルトルの嘔吐の世界観も、現在直面しているものへの異様なこだわりが見られる。というより、そのこだわりこそがこの小説の中心的な主題だと思える。そのような主題をあまり不自然でなく語るための装置としての主人公の設定があり、小説の設定がある。だから、必ずしも小説として必然があるように私には思えない。その点が、嘔吐の小説としてのつまらなさの理由の一つだろう。

嘔吐の主人公は、ドアのノブを握ったときにそれがドアのノブであることをやめて金属質の丸い固体に還元されてしまうことを、体験する。

自分が目覚まし時計の意味を忘れてしまったとしたらどうか。色艶形、あらゆる感覚として、明瞭に捉えられているのに、それが意味として感じられない。それゆえに、その「もの」の「ものらしさ」だけが異様に際立って感じられる。

サルトルは、要するに、世界に投げかけられているわれわれの意味づけを排除したような世界(であったもの)を描こうとして成功しているといえる。

しかし、それは、瑣末なことかもしれないが、「記憶」出来ることなのだろうか。

嘔吐という小説は、ある男の残した日記という形でそれを表現しているため、世界が意味を脱ぎ去って異様な感覚世界に変貌する体験は、常に過去形である。(実際の文章の時制ではない)

過去の体験の記憶を思い出したら、その意味が剥奪されて、そのときの感覚だけが異様に思い出されるということがあるのだろうか。

むき出しの感覚を、記憶することが出来るだろうか。あまりに複雑すぎて、感覚そのものを記憶するなど無理ではないのか。

とはいえ、やはりサルトルの小説を読むと、世界から意味が剥ぎ取られた世界を読者は追体験できるように思える。それは、どうしてなのか。

この問いはおいておいて、小田和正サルトルを比べると、当たり前だが、小田和正の世界では意味は剥ぎ取られない。

このように、現在へのこだわりと言ってもいろんなあり方がある。というかほとんど違ったものにも感じられるが、どこか同じ根を持つようにも感じられるのだ。

ある種の過去へのこだわりなども、現在へのこだわりと似た何かを感じさせるものがある。

この当惑に似たこだわりをそのまま扱うことは出来ないだろうか。あるいはその諸相を全体として捉えることが出来ないだろうか。